研究員の論文
トンガ王国憲法と民主化運動

苫小牧駒澤大学助教授 東裕
出所:憲法政治学叢書2「憲法における東西事情」憲法政治学研究会編 、成蹊堂(2000年)、pp.162-191

はじめに    
トンガ王国(Kingdom of Tonga)は、南太平洋に位置する小国である。人口わずか9万9500人(99年推計)、国土面積は約700k?(奄美大島くらい)にすぎない。この南太平洋の王国は、この地域でただ一国西欧列強による植民地化を免れた国として、他の太平洋島嶼国とは異質の特徴を持っている。我が国との関係も深く、ラグビーや相撲といったスポーツ選手として我が国で活躍中のトンガ人の存在が知られるほか、政府開発援助(ODA)を通じたつながりも深く、我が国は近年第1位の援助供与国となっている。主要産業は農業で、コプラ(そして最近ではココナッツオイル)、バナナ、果実、野菜、などの伝統的作物に加え、日本向けのカボチャの栽培が積極的に行われ、この国の主要な外貨獲得産業となっている。また、日本からの中古車の輸入も多く、オーストラリア、ニュージーランドと並んで、貿易を通じて我が国との関係が拡大している。国内は行政上三つの地域に分けられ、北部のババウ諸島、中央部のハアパイ諸島、そして南部のトンガタプーと並んでいる。首都のヌクアロファは、主島のトンガタプー島にあり、このひとつの島だけで他の島々を合わせたほどの面積がある。(1)

  トンガ王国は、南太平洋諸国の中でも最も色濃く伝統社会を維持している国であるといわれる。そうなった理由の一つは、南太平洋諸国の中で最も早く統一国家形成に成功していたことによる。そのため、西欧列強が19世紀に入って南太平洋の植民地化を進めていく中で、ただ一つトンガだけが植民地化を免れたのである。19世紀半ばに統一国家を形成し、1875年には成文憲法をもっていたこの国を、欧米列強の南太平洋植民地化の時代にあっても、西欧諸国は国際法上の国家として認めざるを得なかったのである。その後トンガはイギリスの保護領となるが、これはトンガが主権国家として、すなわち国際法上の主体としてイギリスと締結した保護条約によるものであり、隣国のフィジーのようにイギリスに国土を割譲したわけではなかった。 

  いち早く統一国家を形成し憲法をもったことは、トンガが南太平洋諸国の中で最初に近代国家化に着手したことを意味する。逆説ではあるが、このことが、今日まで伝統社会を最も濃厚に残す助けとなったのである。トンガの伝統的な君主制をそのまま立憲君主制の枠組みの中に取り込んだことでそれが可能になった。伝統から切断された制度を移入することによって近代国家となったのではなく、それまでに形成されていた制度を立憲主義の枠組みの中で、いわば保護することによってトンガは近代国家となると同時にその伝統社会の維持に成功したのである。このようなトンガの歴史的独自性が、トンガ人自身に他の南太平洋諸国とは違った「誇り高いトンガ人」意識を形成する要因にもなっている。 

一、 伝統社会の構造     
1. 今日のトンガ王国    
  トンガ人はポリネシア人に属し、古くからの原住民の文化をもっともよく継承し、極めて複雑な社会構造と儀式の方式をいまでも維持している。トンガ社会は特に階層と地位の違いによって特徴づけられ、その階層構造は複雑であるが、基本的には、王族(国王とその直系の家族)、貴族(33人の称号を持つ者とその近い親族:ホウエイキ(hou'eiki))、そして平民の三つの主要階層からなる。人は特定の階級に生まれ、階級間の移動はほとんどない。例外的に貴族が自らその権利を拒否した例もある(1980年に国王の息子オナライバハママオは、国王が認めない平民の娘と結婚したためにその称号を剥奪された)が、貴族に生まれた者は生涯を通じてその身分を維持する。一方、平民は絶対に貴族にはなれないが、貴族と結婚して生まれた平民の子は貴族になる。(2)

トンガ人はこの厳格な構造を受け入れ、それぞれの階級の役割と規範に付随する諸価値を尊重し、それがトンガの安定に大いに貢献しているが、一方で近代化に直前にした個人を抑圧しているという見方もある。こうした見方は、平民も高等教育を受ける機会に恵まれるようになって生まれてきた。教育は、もともと高い階級の人々だけで構成されていた近代的政府の中で、限られた範囲ではあるが流動化をもたらすことに貢献している。例えば、1961年には、初めて平民が閣僚に任命されている。それ以前は閣僚はすべて貴族身分の者がなっていた。なぜなら、トンガでは身分の高い者は指導者となることが期待され、しかも高等教育を受ける機会があったのはそれらの階級の人々に限られていたからである。今日閣僚のなかにも平民階級出身者がいる。彼らは高等教育を受け自らの才能でその地位についたのではあるが、婚姻によってホウエイキ階級に入ったからでもある(3)。それ以外の大臣は貴族で、現在の首相は国王の三男の王子である(2000年1月に就任)。

西欧の制度である中央集権的、立憲政府と官僚制によって伝統的な貴族の責任が取り除かれてきたが、実際には、決定にかかわる地位は主に王族と貴族によって占められ、彼らが政府の主要ポストに就いている。この状況は、貴族だけが教育の機会、とりわけ外国留学の機会を持っていた時代には正当化されが、何千人もの平民が今日では貴族と同等あるいはそれ以上の教育水準に達し、彼らは政府の効率、能力、及び一貫性に疑問を投げかけるようになってきている。教育は、今日、管理や教育のポストに就いている多くの平民を生み出し、専門的・技術的・管理的な事務職を行う訓練を身につけ、そして資格を持った人々がいる。しかし、こうした数少ないエリート集団の中の皆が憧れる地位に就くことを希望しながら、その機会を得られなかった人々もいる(4)。

  宗教はキリスト教で、フリー・ウェズレリアン教会の信者数が最も多く、大きな影響力を持っている。それ以外にも多くのキリスト教の宗派が広く信仰を集め、国民生活の中に深く浸透している。日曜日は教会に出かけ、安息日(Sabbath)として、すべての労働、取り引き、スポーツ、輸送サービス等が禁止されているが、観光産業とパン屋は例外的に営業が認められている。(5)

2.トンガ王国の歴史
トンガ王国は、他の太平洋島嶼国とは異なり、古くからの口承に基づく歴史が比較的正確に伝えられている。そして、このような歴史をもっていることが、今日トンガ人が自らの伝統を誇る理由にもなっている。伝えられるところでは、次のようにツイ・トンガT世が即位した10世紀半ばからの歴史がわかっている。(6)

 950年  ツイ・トンガ T世即位(〜39世/1865年没)
1470年  ツイ・ハア・タカラウアT世即位(〜??世/1799年戦死)
1610年  ツイ・カノクポルT世即位
1852年  カノクポル朝第19代・ツポウT世(1845〜93在位)/トンガ全土を統一
1875年  1875年憲法(Constitution of Tonga, 1875)
1879年  英・トンガ友好条約調印
1900年  英・トンガ友好保護条約締結、外交と国防をイギリスに委ねる。
1918年  カノクポル朝第21代・サローテ女王(1918〜65在位)
1965年  カノクポル朝第22代・ツポウW世(1965〜)
1970年  英・トンガ友好保護条約全面改正発効、外交権を確立、完全独立。
1975年  1975年憲法(Constitution of Tonga, 1975)
1988年  1988年憲法(The Constitution of Tonga)

西欧世界と接触するはるか以前、高度に組織化された王制を発達させ、ツイトンガ王朝が統治を行っていた。トンガの伝統的な歴史によれば、初代のツイトンガのアホエイツは、大地を母とする神の子孫であるといわれ、トンガをうまく支配したので国が栄えその支配する王国はニウエ、サモア、トケラウ、ワリス、フツナ、ロツマ、そしてフィジーのラウ諸島の一部にまで及んだ。このツイトンガ朝は、15世紀まで続いた。(7)

15世紀の後半に、人口の増加により行政上の諸問題が王国全域にわたって管理不可能な程に広がった。そこで、第21代ツイトンガは宗教上の地位だけにとどまることにし、世俗の権力を彼の弟とその子孫に委ねた。この新たな暫定的支配者たちはツイ・ハア・タカラウアという名前を与えられ、彼らはこの時代の行政上の諸問題を解決した。第6代ツイ・ハアタカラウアは、しかしながら、第3の王朝、ツイ・カノクポルをつくり、その責任のいくらかを引き継がせた。この王朝の最初の王はツイ・ハアタカラウアの息子であった。その王は、その親族の何人かをさまざまの地域に派遣し地元の問題の処理に当たらせた。この時代はアベル・タスマンの報告によれば、トンガ王国の平和と繁栄の時代であった。(8)

18世紀の終わりから19世紀の初めはトンガにおける政治の不安定の時代で、その原因は主に外部の世界との接触の拡大によるものであった。ヨーロッパ人によって銃が持ち込まれ、銃に魅せられたトンガ人たちはポルト・オー・プランス号という海賊船を包囲し、その乗組員のほとんどを殺した。この事件が起こったのはウルカララ王の時代であった。この王はトンガ諸島で最大の権力を持つ酋長であり、ハアパイとババウの唯一の支配者であったが、トンガタプーは依然として数人の酋長の勢力下にあり、いわば群雄割拠の状態にあった。ヨーロッパ人が持ち込んだ鉄砲の威力を目の当たりにして、トンガの貴族と国王は彼らの伝統的な神々に失望した。ツポウT世は小競り合いで負傷したあと、神々を呪ったが、キリスト教徒になったあと、戦いで連戦連勝したという興味深い逸話がある。

トンガで内戦が続きツイ・ハアタカラウアが1799年に殺され、これによって内戦に終止符が打たれた。ツイ・トンガの系統の後継者は1826年にツイ・カナクポルの子孫であるタウファアハウによってハアパイのヴァレタで敗北を喫した。この勝利によって、タウファアハウはトンガ全土の支配者になった。彼は国王シアオシ・ツポウT世として知られる。トンガ史の形成期において、タウファアハウは自ら非凡な指導者であることを証明した。近代トンガ政治イデオロギーが派生するのはこの時代からである(9)。

いくつもの内戦に勝利した後、彼はトンガ全土を統一しキリスト教徒になった。このことが彼の支配だけでなく近代トンガの発展にも影響を与えた。彼がキリスト教及び西欧世界との接触が増加するにつれて、国王は変化しつつある国民の必要と要望に見合った成文法の必要に気づいた。しかしながら、彼は自分自身の限界を認識していたので、宣教師たちに助言を求めた。国王シアオシ・ツポウT世と共にその名が歴史に残ることになる或る人物、宣教師のシャーリー・ベーカー(Shirley Baker)が、数年間国王の個人的な助言者兼首相を務めた。(10)

ベーカーが憲法を起草したので、憲法はメソジストの影響の強いものになった。彼は、サバス(Sabbath)の神聖さを強調し、その日に取り引きを行ったり、騒いだり 、ゲームや奴隷のような仕事をすることを禁じた。ベーカーはまた、トンガの共同体的自給的経済の中に近代的な「商業主義」を導入する責任を担った。税が導入されたが、これはメソジストの慣行にある「ミッショナル」(協会のミニスターに対し信者が行う毎年の寄付)であった。 

  彼の野心の一つが、西欧列強によって独立国と認められるための政府形態をトンガに与え、トンガの将来の安定と統合を確保することであった。1862年に彼は初めて議会の設立に成功し、1875年にはイギリス型モデルに基づく憲法を与えた。1893年に彼が亡くなる前にはフランス、ドイツ、イギリス、そしてアメリカと条約を締結した。1875年と1893年の間に国王シアウシ・ツポウT世によって1875年憲法に対し4か所の改正が行われ、その後もいくつかの改正が行われてきたが、今日の憲法はその基本原則においてはもともとの憲法とほとんど変わっていない。(11)  

二、 憲法制度    
  現在のトンガ王国の政治制度はトンガ王国憲法(1970年)によって定められるが、この憲法は1875年に制定された憲法がもとになった改正憲法である。これはわが国の大日本憲法(明治憲法)の制定(1889年・明治22年)に先行すること14年、という早さであった。この憲法のもつ歴史的意義について、キャンベルは次のように述べている。

  「この憲法は根本的な改革であった。憲法は酋長制度を想起させるものを廃止し、王位を憲法の下に置き、将来の政治的変更は憲法の諸規定の解釈によるものとし、そして国王の手に大きな権力を留保した。確かに、憲法は酋長制から王制への移行を完成させたのだ。しかし、憲法制定の主要な意図は外国からの批判を交わし、そしてトンガの独立を失わせることになりかねない外国勢力との対立を回避することであった。それゆえ、トンガ人に与えられた自由の保障は、そのこと自体が目的であるというよりもむしろ外国人を満足させるための手段であった。すなわち、今日この憲法の批判者たちが指摘するように、憲法は、当時にあってはトンガ人の理解と必要性を超えるものであった。」(12)  

  その後この憲法は数度の部分的改正を経て、1967年にそれまでの改正部分を統合した単一の憲法典がつくられた。そして、1970年にイギリスからの「独立」にともない今日の憲法ができ、その後数度の部分改正が行われてきた。トンガ王国憲法はトンガ王国の最高法規(82条)として、トンガ王国の統治機構を定めるとともに、世界の他の民主主義国同様、国民の権利・自由を保障する権利章典をも含み、第一部「権利の宣言」(1条〜29条)、第二部「政府の形態」(30条〜103条)、第三部「土地」(104条〜115条)の全115条で構成される。(13)  

  本稿では、この三部からなる憲法のうち、民主化運動との関連で関わりの深い統治機構の問題を主として紹介する。 
  
1.統治機構  
憲法の第二部「政府の形態」(Form of Government)の部で、トンガ王国の政治制度が定められ、政府形態は、国王タウファファウ・ツポウW世とその継承者の統治する立憲政体(31条)であり、国王が国家を統治し、大臣がその責任を負う(41条)。王国の政府は、国王・枢密院・内閣からなる行政部、立法部、及び司法部の三権に分割される(30条)。 

こうして、立憲君主制のもとで権力分立制を採用した統治機構が定められている。     

(1)国王(King) 
トンガ国王は儀礼上の国家元首にとどまるものではなく、枢密院を通じて現実の王国の伝統的支配者として君臨している。 

1 地位  
王位は世襲であり、その継承法は憲法に定められている(32条〜34条)。国王は、すべての酋長及びすべての国民の中での最高権力者(Sovereign of all the Chiefs and all the people)であり、国王の身は神聖である(41条)。国王は国家を統治するが、国務大臣がその責任を負う(41条)。国王は、陸海軍の最高司令官でもあり、国家の福祉にとって最善と考える軍の訓練と統制に関する軍規を制定するが、戦争を行うには国会の同意を必要とする(36条)。 

2 権能  
憲法上、国王に次の権能が認められている。 
@ 国会の解散権・召集権(38・77条)、 A 教書提出権(40条)、B 法律制定権(56条)、C 法律の裁可権(41条)、 D 統帥権・戦争権限(36条)、E 恩赦権(37条)、F 外交権(39条、40条)、G 栄典の授与(44条)、H 通貨の制定(46条)、I 戒厳令布告権(46条)、J 国土の処分権(48条)、K 枢密院議員の任命権(50条)、L 枢密院令の議決権(50条)、M 大臣任免権(51条)、N 知事の任命権(54条)、O 国会議長任命権(61条)。  

このように、国王には三権にわたる広範な権限が認められているが、これらの権限のうち、民主化論者は、国王の大臣任免権を特に問題にしている。     

(2) 枢密院(Privy Council) 
国王の主要職務の遂行を補佐する機関として、国王が任命する枢密院が置かれる。枢密院は、内閣を構成する大臣(51条)、ハアパイ及びババウの知事(54条)、及び国王が枢密院を召集するのに適切と見做す者によって構成される(50条)。 

国王及び枢密院によって承認されたいかなる枢密院令も、その命令を所管する省庁の閣僚の署名がなければ発効しない。また、当該命令が違法である場合は、担当閣僚のみがその責任を負う。国会は、当該命令を確認して法律として制定するか、または撤回することができる(50条)。 

国王が主宰する枢密院が政府における最高行政機関であり、それを構成するのは閣僚と、ハアパイ知事、ババウ知事である。上訴審判事が枢密院議員で、枢密院は最終上訴裁判所となる。最高裁判所で判断された土地・負債・相続についてのあらゆる紛争は、枢密院に上告することができる。しかしながら枢密院はいかなる刑事事件も再審することはできない。また、枢密院は立法権限を制限されているが、しかし枢密院が通過させた命令は、次期国会の集会前に確認のために国会に付され、国会はそれを拒否することができる。     

(3) 内閣(Cabinet) 
内閣は行政部で第二に位置する機関で、首相が主宰する。内閣は外務大臣たる内閣総理大臣、土地大臣、警察大臣、2名の知事(ハアパイ、ババウ)、その他国王が任意に任命する閣僚によって構成される。閣僚の任命は、国王の大権事項に属し、閣僚は、国王の勅許がある期間または委任状に明記された期間、その職責を有し、二つ以上の閣僚の職責を兼ねることができる。閣僚は、枢密院議員及び国会の貴族院議員となる(51条)。 

閣僚は、毎年一回所管省庁の政務を国王に上奏し、国王は、報告書を国会に送付する。国会が閣僚に所管省庁に関して質疑を求めたときは、閣僚は国会が提示するすべての質問に答弁し、自らの所管事項に関するすべての事由につき報告する。閣僚の行政が法律に違反する場合、国会において閣僚を弾劾することができる(51条)。 各閣僚は、所管官庁の官吏が忠実に職務を遂行すべく監督する(52条)。大蔵大臣は、国会の開会にあたり、内閣を代表して財政報告書を国会に提出する(53条)。国務大臣の行為が法律に違反した場合、国会による弾劾の途があるが、そのような前例はない。 

首相は、各国務大臣の権限外のすべての政府活動を監督する。首相はまた、すべての警察官と政府の国璽に責任を負う人物を任命する。一定の場合、内閣と枢密院が任命行為を行う。各国務大臣は、その主任官庁に関するあらゆる事項について責任を負い、答弁することができる。各大臣は、その主任官庁の業務に関する年報を作成し国王と国会に提出する。     

(4) 国会(The Legislative Assembly of Tonga)  
国会は、貴族たる枢密院議員、閣僚、貴族議員(Noble)、及び人民代表議員(People's Representative)により構成される(59条)。9名の貴族院議員は、貴族の中から貴族によって選出され(60条)、9名の人民代表議員は、有権者によって選出される(6条)。国会は一院制であるが、大臣、貴族、及び人民代表は別々の離れた席に座る。国王は、貴族の中から1名の議長を任命する。人民代表議員の選挙権は、貴族でない21歳以上の男女で、一定の欠格事由に該当しない者に与えられる(64条)。被挙権も同様である(65条)。貴族院議員の選挙権は、すべての貴族に与えられる(63条2項)。少なくとも3年に1回、貴族議員と人民代表議員全員選挙を行う(77条)。 
  
国王及び国会は、法律を制定する権限を有する(56条)。法律案の審議及び議決には総議員の半数の出席を必要とし(69条)、国会が法案を3回審議し投票し、過半数の賛成により可決したのち、国王に法案を上奏し裁可を求める。国王の承認と署名を得て公布され、法律となる(56条)。国会は、会議の運営について議事規則を制定し(62条)、国会議員の議員としての行為、行状につき裁決を下すことができる(69条)。国会には、課税及び財政監督権が与えられている(78条)。国会は憲法改正案を審議することができるが、改正により、自由の原則、王位継承、及び貴族の称号並びに世襲地について影響を与えることはできない。国会が憲法を改正しようとする場合、その改正案を3回議決した後、国王に上奏し、枢密院と内閣の全員一致でその改正案が支持された場合、国王はこれを承認し署名したとき、改正が成立する(79条)。 
  
国会議員は、一定の犯罪につき、枢密院議員、閣僚、知事、または裁判官を弾劾することができる(75条)。国会議員は、起訴された犯罪の場合を除き国会の会期中逮捕されず、または裁判に付されることはなく(73条)、国会内での発言または発行文書について責任を問われることはない(73条)。 
  
国会は1年に少なくとも1回開会するが、臨時会を開くこともできる(58条)。毎年の国会の会期は約3〜5か月続き、国王が開会し閉会する。こうした重要な日にはイギリスに似た儀式が行われる。国王は、車で宮殿から国会に向かい臨席する。その道々は、王宮警護官と小中学生の列ができる。国王は国会の建物につくと、トンガ国歌が演奏され、21発の礼砲が発射される。国王演説を国王自ら読みあげ、再び王宮にゆっくりと車で帰り、儀式が終了する。国会の会期末の儀式も同様の列が作られ、トンガの伝統となっている秩序と尊厳とともに実行される。この全儀式は国王の至高性を、特に若者の心の中で強化する。(14)      

(5) 選挙  
人民代表議員のうち5名はトンガタプー・ニウアス・エウア諸島の人々の選挙によって選ばれ、2名はハアパイ諸島から、また2名がババウ諸島から選ばれる。貴族代表議員も同数の割合でこれら三つの選挙区から選ばれる。選挙日には、その選挙区の選挙監理委員が有権者に対し投票を呼びかけ、有権者はそれぞれの選挙区の定数分の候補者に投票する。満21歳達したトンガ人の男女は、被選挙権を持ち、そして有権者登録を行わなければならない。(15)  

かつて、トンガでは選挙の日は興奮する日ではなかった。政党所属の候補者もなく、選挙演説もなく、色とりどりのポスターもなかった。有権者への選挙運動も知られていなかった。選挙に立候補した代表たちは静かに有権者に知られるに任せ、それで良い代表が得られたが、今日では、このようなことはあり得ない。候補者たちは、有権者を動員するために宣伝に出かけ、演説を行い、ポスターを貼り、人々と接触する。過去の数少ない選挙で、有権者に訴えるのに最も効果的であった方法は、選挙の際に有権者にタダまたは安価な輸送手段を提供することであった。近年の数十年間、多くの人民代表議員は、バスかボートを所有する実業家であった。トンガタプーの候補者に車の所有者が多いということの一つの理由は、バスの所有者が前回の選挙でバス料金を値上げしたため落選したということである。実際選出された議員7名のうち4名が、それぞれ自分の職業を持っている。多くの他の資本主義諸国同様、政界に入ることが実業家として成功の証しなのである。(16)  

このことが深刻な問題を提起している。すなわち、人民代表議員の数が少な過ぎるだけでなく、人民が十分に投票の準備ができていないため、しばしば議員に最も適した人々が選ばれているわけではないということである。有権者の多数はその物質的貧困のため、人民代表としての技術を備えている人を選択するよりもむしろ、しばしば実業での成功をその候補者選択の主要な基準と見ている。さらに、こうした実業家出身議員はしばしば何らかの形で「ホウエイキ」とつながりを持ち、その支持を得ていて、誰らは共通の利益を有している。貴族は大変その数が少ないので、彼らは血縁と婚姻を通じて密接に結びついている。そして貴族同士の間で、目立たないように選挙運動を行うのである。(17)      

(6) 司法権(The Judiciary) 
トンガ王国の司法権は、上訴裁判所(Court of Appeal)、最高裁判所(Supreme Court)、下級裁判所(Magistrate's Court)、及び土地裁判所(Land Court)に付与されている(84条)。 

最高裁判所の管轄は、王国の憲法と法律のもとに生ずるあらゆる普通法と衡平法に関する問題(陪審裁判・土地裁判を除く)、外国との条約及び公使及び領事に関するすべての事項、および国務省、執政官、及び海事に関するすべての訴訟について認められている(90条)。 

上訴裁判所は、憲法と国会制定法により最高裁判所又はその裁判に申し立てたすべての上訴を管轄し、当該制定法により付与されるその他の管轄権をもつ(92条)。また、裁判官は、罪科なき限りその職務を保持し、国会の定める額の給与を受け、任期中は減額されることはない。こうしてその身分が強く保障されている(87条)。 

司法権は枢密院上訴裁判所、最高裁判所及び警察裁判所に付与されている。最高裁判所は、トンガ司法長官(Chief Justice)と枢密院の同意に基づき時宜に応じて国王が任命する、その他の裁判官で構成される。 

司法長官は国王に対し、司法行政と犯罪統計、並びに法律の改正勧告に関する年次報告を提出する。長官は、裁判の開廷期日と場所を定め、刑事及び民事に関する治安判事の権限を定め、最高裁判所で審判すべき事件を決定するが、これらはすべて法律の定めるところに従って行われる。しかし、上訴裁判所の開廷時期と場所は枢密院における国王の権限事項に属する。    

2.人権    
  第一部の「権利宣言」(Declaration of Rights)の部(第1条〜第29条)では、次のような権利・自由が定められている。 
  1)財産権の保障(1条)、 2)奴隷的拘束の禁止(2条)、 3)外国人労働者との労働契約(3条)、 4)法適用の平等(4条)、 5)信仰の自由(5条)、 6)安息日の遵守(6条)、 7)表現の自由(7条)、 8)国王又は議会への請願権(8条)、 9)人身保護法の適用(9条)、 10)罪刑法定主義(10条・14条)、 11)刑事手続きの保障(11条・13条・14条・16条)、 12)二重処罰の禁止(12条)、 13)裁判官の中立(15条)、 14)国王の公平な統治(17条)、 15)政府の義務と国民の権利保障(18条)、 16)財政民主主義(19条)、 17)遡及法による権利制限の禁止(20条)、 18)兵士に対する特別法・特別裁判所の禁止(21条)、 19)王国警備隊の特権と国王の統帥権(22条)、 20])権の停止・恩赦(23条)、 21)公務員の兼職禁止(24条)、 22)称号等の継承(27条)、 23)陪審員の資格(28条)、 24)帰化(29条)。  
  この中で、特にトンガに特徴的な規定として、次の条項を挙げることができる。 

1.奴隷的拘束の禁止(Slavery prohibited) 「何人も法律による刑罰を受けるほか、自らの意思に反して他  の者に隷属しない。(以下略)」(第2条) 

2.法適用の平等(Same law for all classes) 「トンガには、酋長(chiefs)と平民(commoners)、トンガ人と非トンガ人の区別をしない、単一の法律のみが存在する。一つの階級に施行され、他の階級には施行されないような法律は存在せず、法律はトンガのすべての者に対し平等である。」(第4条) 

3.安息日の遵守(Sabbath Day to be kept holy ) 「トンガでは安息日(Sabbath Day)は神聖であり、法律で認められたものを除き、安息日に取引もしくは職業活動またはいかなる商業活動も行ってはならない。この日に締結されたり署名された契約や無効であり何らの法律上の効果も有しない。」(第6条) 

4.国王の公平な統治(Government to be impartial) 「国王(The King)は、すべての臣民のために統治を行い、一人の者、一つの家族、一つの階級のみを富ませ、便宜を供与することはせず、王国のすべての人々の福祉のために公平に統治する。」(第17条) 
 
このなかで、「奴隷的拘束の禁止」や「法適用の平等」はトンガに特徴的というわけではないが、両条項が相まって、トンガの伝統的な酋長制の下での階級間の不平等を否定し、法の下の平等を宣言したものという歴史的意義をここに見いだすことができる。 
  
「安息日の遵守」は、今日のトンガの生活のなかでも強く守られ、トンガの伝統の維持に役立っているが、その反面、産業開発・経済発展にはマイナスに作用する面があることは否定できない。 
  
「国王の公平な統治」原則は、国王が特定の階級等に奉仕することを否定し、国王はすべての国民の福祉増進のために政治を行うことを要請している。欽定憲法ではあるが、この原則によって国王の統治方法が憲法上の制約を課せられていることは、すなわち立憲君主制を採ることを宣言した規定であるともいえる。    
3.土地    
  第三部の「土地」(The Land)の部(第104条〜第114条)では、次のような特徴的な規定が置かれている。 

1.国王の土地保有・売却の禁止(Land vested in crown / Sales prohibited) 「すべての土地は国王の資産であり、国王は任意に貴族(nobles)、酋長の称号を有する者(titular or matabules)に、1又は2以上の不動産を世襲地として授与することができる。しかし、国王、酋長、又は一般人の区別なく、何人も今後いかなるところであってもトンガ王国の土地を売却することは違法となる。国王といえども土地の売却は禁ぜられ、賃貸借のみが憲法及び土地法(Land Act)による抵当の場合に限り許される。以上の宣言は、国王と酋長及びその継承者と子孫を永久に拘束する盟約(covenant)である」(104条)。 

2.土地賃貸借期限(Terms of leases) 「内閣は、土地の賃貸借期限を定めることができるが、99年を越える期間の賃貸は許されない」(105条)。 

3.土地賃貸借の同意(No lease etc. without consent) 「貴族、世襲の酋長、又はトンガ人は、あらかじめ内閣の許可を得ないで外国人に土地を賃貸することはできず、かつ、賃貸が99年を越える場合は枢密院の同意が必要である。」(114条) 

4.土地貸与の形式(Form of deed) 「すべての貸与と許可は、枢密院において国王が裁可する貸与証書及び認可証書に従って行われる。」(106条)。 

以上要するに、トンガの土地は国王に属し、その売却は禁ぜられ、賃貸借のみが許されている。賃貸借にあたっては、99年を越える長期契約は許されず、その期限の設定については内閣が権限を有する。また、外国人への土地の賃貸は、事前に内閣の同意が必要で、99年を越える賃貸については枢密院の同意が要求されている。なお、土地の貸与とその許可については国王の裁可する書面によって行われる。こうして、土地に対する権限はその大半が国王に帰属している。 

三、政治社会と民主化運動     
1. 政治社会  
エミリアナ・アフェアキ(Emiliana Afeaki)は、トンガの政治社会の特徴を次のように要約する。  

「もし、『政治』を『権力闘争』と定義するなら、トンガにはそれがほとんどない。たいていの人々は政府の中で何が行われているかを知らず、またそのことに関心を抱いていないように見える。彼らが本当に関心を欠いているかどうかは別に、表面上、彼らは よく洗練された伝統的社会構造の中で安住しているように見える。貴族と国王が社会と 政府の指導者としてあらかじめ認められているという信念が一般に受け入れられている。トンガ人はポリネシアの伝統と習慣の継承者であることを誇りにし、2世紀以上前にキャプテン・クックによって名づけたれた『フレンドリー・アイランズ』のイメージを保ちながら、旅行者を引きつける『古代ポリネシア』のイメージを維持している。トンガの君主制の権威と高い階級にいる者への敬意が国家の平安と安定に役立ってきた。しかしながら、少数ではあるが、その伝統的システムと『古代ポリネシア』にまつわるいくつかの要素の効率性と統合に疑問を持ち始めた人々がいる。彼らは、その高等教育とより広い経験によって不満を抱くようになり、それが水面下で政治の波を生み出している。」(18)  

ここにみられるように、安定した君主制のもとで伝統的な社会構造を維持しながら、大きな政治変動を経験することなく穏やかな政治社会を維持しているトンガの特徴が描かれている。しかし、国民の教育程度が高まるにつれて、現在の政治制度の変革を求める「民主化」の動きが、1970年代に発生し、時に政府と「衝突」するような事態も生じてはいる。それでも、やはり伝統の中に生きるトンガ人という一般的なトンガのイメージは今でも根強く残っている。 

しかし、その伝統も別の視点から眺めるとき、次のようにも見えてくる。すなわち、トンガ王国の権力の実態として、王権と社会の階層構造に基づいた伝統的な権力構造の存在が以下のように指摘されるのである。(19)  

トンガの中心的権力者は国王である。これは世襲の権力で、その根源は神聖なる起源を持った人物である祖先のアホエイツ(Aho'eitu)に遡る。この「神格」は、代々受け継がれ、国王の権力の重要な部分になっている。トンガの貴族もまたアホエツとの世襲的つながりを持っていると主張し、彼らがトンガ社会で持っている権力の大きな部分は人々の酋長家系に対する敬意の所産でもある。この意味で、世襲はトンガにおいては権力であり、貴族はことあるごとにこの特別な血統を維持しようとして貴族同士での婚姻を試みる。貴族の男性が平民と結婚した場合、その子供は貴族の中では身分の低いものと見なされ、彼の血は「薄まった」といわれる。普通未婚の母に向けられる恥辱のまなざしも、平民女性が貴族の婚外子を産んだ場合は別である。この場合、母親は、「特別な血統」とのつながりを誇ることになる。 

1875年憲法は、平民の地位を引き上げ、西欧との接触以前は彼らの運命であった農奴制から平民を解放した(20)。けれども、平民の貴族や王族への伝統的な敬意と忠誠心は、高い地位にある者の権力を強化する機能を果たす。平民の高い地位にある者への態度は、西欧との接触以前の神と酋長に対する恐れから来るものだとしばしば説明される。おそらくそうしたものが一部にはあるが、しかしまた制裁がたくさんあることによる部分も大きい。人々は正当な権限によらずに搾取された時でも、それを上位者によるものと見なし服従する。貴族の悪行はもみ消され、それが存在すると考えることすら平民の権利の中にはない。トンガの平民は「カカイ・タウヒ・エイキ(Kakai Tauhi Eiki: providers of the chiefs)」(酋長への供給者)と位置づけられ、貴族の行為が何であれ、それを搾取と解釈することは、彼らにとってー少なくとも公的にはー困難である。(21)  

こうしてトンガの権力構造は、時に植民地状態に例えられる。高い階級にあるものは「植民者」であり、平民たちは「被植民者」である。わずかな違いは、植民地下においては「植民者」は、しばしば「被植民者」の同意を得ずにを搾取するが、それに対しトンガの状況は、「被植民者」は搾取されていることに気付かず、あるいはたとえ搾取されていたとしても、彼らはその無力感と見知らぬ憤激に巻き込まれるという伝統的恐怖感からあきらめ、単に物事をあるがままに受け入れる。さらに悪いことに、その状況は同じ人種に属する人々であるということで、外からは一層見えにくくなっており、たとえそれが認識されたとしても、それを解決することは容易な仕事ではないのである。(22)                                           

2.民主化運動 (23)      
(1) トンガのジレンマ  
1997年に発行された「マタンギ・トンガ(MATANGI TONGA)」(Oct.-Dec.1997)誌は、立憲君主制特集(Constitutional Monarchy, what the people say)を組み、トンガの直面する民主化問題を「トンガのジレンマ」(Tonga's dilemma)という言葉で的確に表現し、トンガの直面する問題をおよそ次のように要約する 。   

「トンガは、1875年以来立憲君主制を採用し、南太平洋で最も古くから政府を形成してきたが、それは  また南太平洋でもっとも安定した政府でもあった。ところが、今日この122年 に及ぶ政府形態がいくつかの根本的な変革を求める内外からの圧力にさらされている。これまでのところ、変革要求は一般にいくつかの国王権力の放棄を求めるものであるが、その内容をより正確にいうとすれば、政府の政策決定過程への国民の参加を拡大すべきだというもので、こうした要求が次第に大きくなってきている。   

しかし、トンガにとってのジレンマは、トンガのモデルとしてふさわしい選挙によって選出されたメンバーで組織される政府を持つ国が、この地域にも世界にもないということで、そのようなモデルとなる制度が見つかれば、その制度はトンガに安定をもたらし、その文化と伝統を保護してきた現在の立憲君主制に実行可能な選択肢を提供するものとなろう。ところが実際は、選挙によって組織される政府は政治上の対立者間の闘争と衝突をもたらす傾向が強く、経済基盤の脆弱な発展途上国にとっては災いの多いものであることを示す例が数多くある。」(24)  

このように、トンガの民主化要求は主にいくつかの国王権限の放棄による政策決定過程への国民の参加拡大を求めるが、それをこれまでトンガの文化と伝統を保護し政治の安定をもたらしてきたと積極的に評価される立憲君主制の枠組みの中でどう実現していくか、あるいは拒否していくか、というところに問題の核心がある。ところが、制度上の具体化となると、今日そのモデルとなるような制度を採用し、成功裡に国家運営が行われている実例が世界中に見当たらない。すなわち、民主化要求がなされてはいるが、制度をどう変更するかという段になると、「誰も説得力のある変革のレシピを用意できず、ここ10年から20年は根本的な変更はないだろうと予測され、・・・トンガの立憲君主制は地域における最古の政府としての経験を記録し、トンガ特有の文化と社会は、21世紀にむけて順調な歩みを続けているように見える」(25)、というのが現状ではある。                                      
(2) トンガの伝統的制度への誇り  
トンガの人々の政治的見解は様々であるが、ほぼ例外なく誰もが同意するのが、「トンガは特別な国」という意識をもっていることである。その一つの理由が、トンガは他の太平洋島嶼国同様の極小国ではあるにもかかわらず、他の島嶼諸国とは違って植民地化を免れ、永らく自治を行ってきたという歴史的経験である。これが「トンガは特別」という意識形成に与っている。すでに述べたように、トンガは910年以来国王を形成し、いち早く南太平洋で唯一国家形成を完了していたため、19世紀の終わりに西洋諸国が南太平洋に目を向けたときに、トンガ王国は太平洋地域でただ一つ植民地化を免れることができた。また、1875年に当時の先進諸国同様に憲法典をもったことで、フランス・ドイツ・イギリスなどの列強諸国からトンガは国家として承認されることにもなった。こうした歴史伝統がトンガの立憲君主制への信頼とその制度を持つことの自負心を養い、「トンガは特別」との意識を形成してきたのである。 

ところが、今日世界は変わり、「デモクラシー」に高い道徳的価値が置かれるようになり、選挙によって選ばれた代表が政府を構成する西洋型デモクラシーが世界的な流れとなり、南太平洋諸国政府のモデルともなった。こうした潮流の中で、トンガだけが今も国王は神聖でありすべての酋長(族長)及び人民の最高権力者(Sovereign)である、という制度のもとで国家運営が行われているのである。こうした理解がトンガの人々に広く共有され、民主化論議が行われるときにもその前提となっているようである。そのため、民主化を要求する人民代表議員といえども、すべてが「民主化」を求めているわけではない。今日のトンガ議会を構成する9名の人民代表議員は、国王が大臣を任命し続けるべきか、あるいは人民によって選出されるべきかといういわゆる「民主化」問題について意見が割れているのである。民主化を主張する人々の要求は、大臣は広く国民の選挙によって選ばれた議員の中から任命されるべきだという点にあるが、一方で国王ツポウW世自身がいうような、議会ではなく国王こそが国民代表である、という考え方も根強く支持されている。                                      

(3) 民主化要求派の主張  
民主化運動の中心人物で「人権民主主義運動」(Human Rights and Democracy Movement)(かつての「プロ・デモクラシー運動」(Pro-Democracy Movement)(26))の指導者であり、かつ人民代表議員でもあるアキリシ・ポヒバ(Akilisi Pohiva)は、こう主張する。   

「人民が国会議員全員を選挙で選ぶようになれば、国王は、その中から多くの有能な人物を任命することが  できる。トンガには有り余るほど多くの教育を受けた人々がいる。国民が国会議員全員を選挙することがトンガがやらなければならない根本的な改革の一つである。デモクラシーは世界経済のグローバリゼイションの重要な一部であり、我々はその一部でなければならない。」(27)  

これは、国民の教育水準の向上により、国王や貴族以外にも多くの有能な人材が生まれるようになったにもかかわらず、そのような人材が活用されていないという現状、そして政治・経済ともに国際化しなければならないという主張である。 

また、トンガの私立大学であるアテニシ学院院長で政治思想家でもあるフタ・ヘル教授(Prof. Futa Helu)は次のような見解を明らかにしている。  

「トンガ人にとって、一つの最も重要な政治上のステップは、被支配者が自らの支配者たちを自らの手で選ぶことであり、立憲君主制自体の問題は、全く重要な争点ではない。誰もが、伝統的な特権階級と平民階級との間での階級闘争にかかわっている。トンガ政府は、いわゆる立憲君主制であるが、しかしそれは文化的慣行に覆われたもので、文化こそが今この国を動かしている。私は、政府はここでは立憲君主制であるとは見ない。政府は、封建的なトンガの伝統慣行による支配を表現していると見る。立憲君主制という表現は誤りで、それは絶対君主制にきわめて近似している。それは、強い貴族制に支えられた君主制である。・・・・」(28)  

ヨーロッパでは、封建制から資本主義、立憲君主制と移行し、ビジネス部門が発達し、貴族の力が弱まり、資金を持つ階層と土地所有階層が分離していった。しかし、トンガでは、土地所有階層がビジネスに乗り出しビジネス部門を支配し、平民階層は、従来の地位にとどまったままとなっている。そこで、こうした現状を変革するために、今の時点でできる可能性のある解決策は、被支配者が支配者たちを自らの手で選ぶ権利を持つようになることである、という。ここでは、トンガの伝統的君主制とそのもとでの社会構造が資本主義の発展を妨げており、その障害を除去する手段が民主的な選挙による代表の選出制への移行であると考えられている。 

このいずれの見解においても、その基礎にあるのは、トンガの伝統的な社会構造が依然として存在するという認識である。その意味では、変容する伝統社会といえども伝統に根ざすが故に、容易にはその本質まで変化するものではないといえよう。                                      

(4) 反民主化論者の反論  
人民代表議員の中にも現在の制度を基本的に支持する者もいる。マサオ・パアシ(Masao Paasi)がその一人で、彼は、現行の国王による大臣の任命に賛成する。その理由は、トンガのような小さな国では、適切な人材を登用するためには国会議員に限らずより多くの人々の中から国王が自由に大臣を選んだ方が良いと言うのである。もし、国王が人民によって選出された議員の中から任命しなければならないとすれば、自分たちが何をしているのか分からないような大臣たちが生まれるかもしれないと危惧する。(29)  

かつて、国会議員のうちきちんとした教育を受けた者は大臣に限られ、そのため、貴族は常に大臣に賛成してきた。なぜなら貴族もまた教育を受けた人々であったからだ。しかし、事態は変わり、現在のトンガでは大学を卒業者は貴族だけでなく一般人民にもいる、として有能な人材を国王が自由に任命することが可能である現行制度を支持する。しかし、その一方で現在の何名かの大臣については、在職期間が長過ぎるとの思いから、制度の中に新しい血を入れ、大臣に緊張感を持たせることが必要だと考えている。そのために、大臣任期を3年から5年に制限すべきだとも主張している。(30)  

ここにみられる考え方は、一般国民の教育水準の向上により、大学進学を果たすようになった結果、貴族だけでなく一般国民でも国民代表として十分な判断力を備えた人材を輩出するようになったため、旧来の制度はその基本は支持するとしても、やはり改革すべきところがあるということである。その意味では、ここにも伝統社会の変容を承認せざるを得ない時代の変化が見て取れる。 

次に、内閣副官房長官(Deputy Chief Secretary to Cabinet)をつとめる女性エセタ・フシツア(Eseta Fusitu‘a)は、トンガの人々と国王との文化的関係が「政府の力」(the force of government)にとって重要であるという。  
「国民と国王の文化的関係は、政府効率に貢献する要因である。トンガが国王を持つのは、社会が王制を支持してきたからであり、トンガ国王権威は、憲法上認められた国王の権威をはるかに越えている。国王の権威の90%は、憲法の中にあるのではなく文化の中にある。トンガ国王の権力は、憲法と文化という2本の足の上に立脚するが、たとえばニュージーランドの政治指導者は、法制度という1本の足だけで立っていて、文化的基礎を欠いている。   
確かに選挙で選ばれた代表で形成される政府は、責任(accountability)を拡大するが、反面、任期中に利益を確保しようとして汚職の問題がつきまとう。ところが、トンガの政府は誤りを犯したことはあっても、腐敗を起こしてたことはない。我々が誇るべきことの一つは、安定した政府を持っていることで、これは動揺が続く世界の中で、小さな島嶼国にとって決して小さな成功ではない。そして、これらはいずれもトンガ憲法の所産である。   

選挙による代表で政府が形成される国と、トンガの大臣任命法を比較すると、選挙によって選ばれる国で大臣になるためには、政党内で良い地位を占めることが条件となる。それには、政党指導者の気にいられることが必要となり、そこに腐敗が生じる。だが、トンガ国王と大臣の間にそのような関係はない。トンガでは、突然王宮に呼ばれ、大臣に任命される。従って、腐敗が起きる余地がない。また、ツポウT世のつくったトンガ憲法があったおかげで、ヨーロッパの列強はトンガを国家と認め、トンガは植民地化を免れた。一方、憲法によって、政府形態を確立していなかったサモアやフィジーなどは、やすやすと列強の餌食になってしまった。すなわち、永らく単一国民でただ一人の国家 元首を頂いてきたトンガの歴史伝統が、トンガをヨーロッパ列強による植民地化から救ったのだ。」(31)  
このように、彼女は憲法と伝統文化に基礎をおくトンガ国王の権威が、大臣の腐敗を防止し、政府効率を高めると考えるとともに、トンガ憲法がこれまでに果たしてきた国家統合の役割を高く評価する。ここには、近代化に反してトンガの伝統的な諸制度の合理性と積極的な意義を認め、それを維持していくべきだという考え方が述べられている。
結びにかえて ― 民主化運動と伝統文化    
現状では、民主化論者といえども、立憲君主制の廃止を言うものは一人もなく、民主化論議の主要な争点は、国会議員の選挙・大臣の任命について国民の参加の拡大を認めるか否かという点にある。立憲君主政体の変更を主張するどころか、むしろ民主化論者は、憲法が予定するような立憲君主制の純粋な形での実施を求めているようである(32)。つまり、現在の国王の権威が立脚する2本の柱のうちの一つである伝統文化的側面を切り離し、憲法に明記された形での国王権力の行使を求めている。すなわち、立憲君主制という形で君主制を維持するという限りでは伝統的制度の維持に賛成してはいるが、国王の権威の背景にある伝統文化的側面を否定しようとする点では伝統社会の在り方に反対し、その変更を迫っているといえる。 

また、反民主化論者も現行憲法制度を全面的に擁護するものではなく、国王による大臣任命制の維持を別にすれば、マサオ・パアシのように大臣の任期制の導入、大臣と議員の兼職禁止、国会改革などの部分改正を言う意見もみられる。しかし、総じて反民主化論者はトンガの伝統文化に高い価値を見いだし、その伝統文化を政治の場でも生かしていこうという傾向が感じられ、そのためには憲法制度よりもむしろ伝統文化を蝕んでいる社会変化の方に関心があるようである。 

要するに、現段階ではトンガ民主化運動の焦点は、貴族代表をも含めた全国会議員を全国民の選挙によって選出し、その議員の中から議員自ら大臣を選出するという方式の要求にあり、その実現にはいくつかの憲法条項の改正を必要とするため、現状では、「民主化」実現の可能性はきわめて薄いといわざるを得ない。 

ただし、近い将来、大きな政治変動が生ずる可能性が全くない、と断定することもためらわざるを得ない状況がある。それは国内要因ではなく、国外の要因である。隣国フィジーで、2000年5月19日にいわゆる文民クーデタが発生し、現体制を変更し憲法を破棄する、という事件が起きた。この事件がトンガ人の心にどのような印象を与えたかを推し量るすべはない。また、フィジーとトンガでは、隣国同志とはいえ、その社会構造は全く異なっている。そのような前提条件を考慮すると、今後のトンガの政治動向を軽々に論じることは危険ではあるが、一般論として次のようなことは指摘できるだろう。 

フィジーのクーデタの成り行きを目の当たりにして、現在のトンガ社会の安定の中に隠されている国民の不満が何らかの形で顕在化する可能性はないのか、また、政治指導者層がそのような国民心理の動向にどこまで敏感に対処していくことができるだろうか。国民からの人望の厚い現国王の高齢化とともに政治情勢が流動化する可能性も無視できない要素である。そう考えると、1999年の選挙で民主化推進派への支持の低下が明らかになったとはいえ、今後トンガの政治状況が何らかのきっかけで流動化する自体もなしとはしえないだろう。そのとき、憲法問題がたんに民主化運動家だけではなく、全国民的に論議されることもありうるのではないだろうか。それが立憲君主制のサバイバルにとっても避けることのできない課題であるように思われる。 

(注)
(1)トンガ王国の概要については、外務省アジア局・欧亜局・中近東アフリカ局監修『最新版アジア・オセアニア各国要覧』、東京書籍、1995年、248−251頁参照。
(2)Emiliana Afeaki, Tonga:the last Pacific Kingdom, Politics in Polinesia, University of the South Pacific 1983. p.58.
(3)Ibid., pp.58-59.
(4)Ibid., p.72.
(5)太平洋島嶼諸国ではキリスト教が広く信仰されているが、なかでもトンガはもっともつよく安息日が守られている。このことは伝統的生活様式を維持する上で重要ではあるが、反面経済発展を阻害する要因にもなっており、伝統と発展の調和が求められている。(東 裕「トンガの産業開発と伝統社会の変容」、『太平洋諸国の産業開発と伝統社会の変容ーサモア・トンガー』、社団法人日本・南太平洋経済交流協会、平成12年、96頁)このことは、いずれ憲法問題の一つになる可能性を秘めていると考えられる。
(6)Emiliana Afeaki, ibid., pp.59-62. 青柳まちこ『トンガの文化と社会』、三一書房、1991年、9−22頁参照。
(7)Ibid., p.59.
(8)Ibid., pp.59-60.
(9)Ibid., p.60.
(10)Ibid., pp.60-62.
(11)Ibid., p.62. シオネ・ラツケフは、憲法制定へと国王ジョージ・ツポウ一世を駆り立てた主要な動機は、トンガの独立を維持するために列強からその承認を取り付けることと、国王の死後のトンガの国内的安定と統合を確保しうることであった、と指摘する。(Sione Latukefu, The Tongan Constitution: A Brief History to Celebrate its Centenary, Tonga Traditions Committee Publication, 1975. )その後の歴史から明らかなように、ベーカーとツポウT世の憲法制定にかけた目的は疑いなく達成された。また、当時のサモアやフィジーでは植民者の勢力が強まりつつあったことが国王やベーカーの危機感を高め、近代的政府の形成こそがトンガを西欧勢力による乗っ取りから国家を防衛することになると考えられていた。(I.C.Campbell, Island Kingdom Tonga Ancient & Modern, Canterbury University Press, 1992, p.76)
(12) Campbell, ibid., p.78.
(13)トンガ憲法については、Sione Latukefu, The Tongan Constitution: A Brief History to Celebrate its Centenary, Tonga Traditions Committee Publication, 1975.、Laws of Tonga(1988 ed.)、 西 修「(資料)トンガ王国憲法」、法学論集第26号(駒澤大学法学部)、1983年、67−92頁、及び浦野起央・西 修編『資料体系アジア・アフリカ国際関係政治社会史』(第6巻憲法資料(アジアV))、パピルス出版、1675−1692頁、参照。
(14)Afeaki, ibid., p.66.
(15)Ibid., pp.64-65.
(16)Ibid., p.65.
(17)Ibid., pp.64-66.
(18)Ibid., p.57.
(19)Ibid., p.68.
(20)Ibid., p.70.
(21)Ibid., p.71.
(22)Ibid., p.71.
(23)須藤健一「トンガ王国の民主化運動」、国立民俗学博物館地域研究企画交流センター編『オセアニアの国  家統合と国民文化』連携研究成果報告2、平成12年、所収。トンガの民主化運動の発生から展開、そして現状に至るまでについては、本論文に詳しい。
(24)MATANGI TONGA, Oct.-Dec.1997., p.5. 及びこれを紹介したものとして、東 裕「トンガ民主化の射程ー民主化=立憲君主制の純化?」、「ミクロネシア」通巻107号、平成10年、14−15頁。
(25)Ibid., p.5. 「前掲論文」、15頁。
(26)'I. F. Helu, Democracy Bug Bites Tonga, Culture and Democracy in the South Pacific, p.145, 1992, USP.
(27)MATANGI TONGA, Oct.-Dec.1997., p.14. 「前掲論文」、25−26頁。
(28)Ibid., p.17. 「前掲論文」、27頁。
(29) Ibid., p.13. 「前掲論文」、28頁。
(30)Ibid., p.13. 「前掲論文」、29頁。
(31)Ibid., p.16. 「前掲論文」、31−32頁。
(32) 須藤「前掲論文」、も民主化論者について次のように指摘している。「この運動を推進してきた政治的指導者ポヒヴァをはじめ改革は議員、教会や教育界のリーダーやビジネスエリートマンは、いずれも立憲君主制を肯定し、より民意を反映でき、より多くの平民が参加できる政府や議会政治の実現を目標としている」(105頁)。また、アキリシ・ポヒヴァ自身、反君主制論者ではないことを5期目の当選を果たした昨年3月の総選挙後の雑誌インタビューで語っている。(MATANGI TONGA, April-June. 1999., p.20-26)  
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