PACIFIC WAY

−ああ、楽園のはずが

     ポナペ・ホテル憤戦記
      −第8回− 番外編   

茂田達郎 (しげた たつろう)


悪いヤツは楽に死ぬ !?
 
 その報に接したのは、1年前(2006年)の6月4日のことだった。

  その日の昼下がり、オルペットの4男アンソンが、いつになく緊張した面持ちでスノーランドに現れた。

  「パパが死んだ。棺(ひつぎ)を買う金を都合してほしい」

  いきなりアンソンが口にした言葉は、思いもかけないことだった。

  オルペットとはときどきクルマで行き交うだけでなく、毎月初めにはスノーランドに金を受け取りにきていたので、月に2,3度は顔を合わせる機会があった。このつい数日前も街中で偶然出会い、挨拶を交わしたばかりだった。そのときの様子では、最近、少し体調を崩していたがもう大丈夫だと、至って元気そうだった。

  確か彼は、ちょうど70歳になるはずだった。外見はともかく、年齢的には決して若くない。ポナペ人の平均寿命はとうに超えている。いつ逝ったとしても驚くにはあたらないのだが、10年以上我々に寄生し、したたかに肥えてきたオルペットである。そうそうたやすく目の前から消え去るとは容易には信じ難かった。

  しばし呆然自失している私に、アンソンはどう勘違いしたのか、

 「ここの土地は心配ない。あげるから」
 とたたみかけてきた。

 「そんな話はいま必要ない。それよりいったい何があったんだ? わかるように話してくれないか」

  こちらの少々いらついた口調に押されるように、アンソンの語ったところによると、オルペットは昼食後、気分が悪いと言って横になった。間もなくして胸が苦しいと訴え、やがて心臓が停止したという。かつてダイブショップでガイドをしていてレスキューの心得のあるアンソンの弟のジャスティンが心臓マッサージを試みたが、蘇生しなかったそうだ。検死制度があるわけではなく、病院に搬送したわけでもないので、確かなことはわからない。だが、状況から推して、心臓発作、心筋梗塞の類だったのではなかろうか。心臓病がシャカオを常飲するポナペ人に特徴的な死因のひとつになっていることは、前にも書いた。オルペットも大のシャカオ好きだった。

  事実だとすれば、あまりにあっけない最期である。いや、それどころか、理想的な大往生と言っていい。「悪いヤツはいい死に方はしない」とよく言われるが、そんなのはたわごとであって、被害者側の気休めに過ぎない。私の師匠であり、兄貴分でもあった人は、「仏の忠さん」と異名をとるほどの、すこぶる付きの善人だったが、3か月におよぶ壮絶なガンとの戦いの末、亡くなっている。世の中とはかくも理不尽なものか――。ときならぬ怒りさえ湧いてきた。

  この連載の冒頭に記したオルペットへの手切れ金、スノーランドから一切手を引かせるための決別料は、その後、オルペットの希望で年払いから月払いに切り替えられ、この年をもって終了することになっていたが、それも前倒しに次ぐ前倒しで、このときわずか900ドルを残すだけとなっていた。その全額を、この場でアンソンに渡してしまうことはできるが、だれが遺産を相続するのかはっきりしていない状況で処理してしまっては、後々だれかにクレームをつけられないとも限らない。ポナペ人相手にたびたび痛い目にあってきた我々は、ひたすら慎重だった。息子の健と相談した結果、オルペット夫人と子どもたちの代表、ふたりのサインした合意文書と引き換えに支払いを実行することにし、アンソンに告げた。

  アンソンは、父親から何も知らされていなかったらしい。6年前、総額5万ドルと引き換えに、土地は私の孫娘のクリスティーナ名義に、持ち株は会社に、つまりスノーランドに関するすべての権利を移譲しており、その未払い金が棺を買うにも満たない金額だとわかったときには、彼の黒い顔が瞬間、赤く染まるのが見て取れた。

  知らなかったのはアンソンばかりではなかった。結局、残金の支払いが行われたのは2か月後の8月中旬だったが、このときスノーランドにやってきたのは、オルペット夫人と次男のクリノ、ジャスティンの3人だった。私は意図的に立ち会わなかったので個々の反応までは不明だが、オルペットと交わした合意書やこれまでに支払った領収書などを提示しながら息子夫婦が説明にあたると、最初は半信半疑だった夫人とクリノも、内容がつまびらかになるにつれ納得したという。6年前、大金の納まったアタッシェ・ケースとクルマを受領したことはジャスティンが覚えていて、証言した。

 夫人はそう言って、こちらで用意した書類にクリノとともにサインしたという。
   
 通夜には、家族そろって弔問に出かけた。

  オルペットの家は、ポナペの南端、コロニアの街から最も遠いキチ村のロイという部落にある。急斜面の道を上り詰めたわずかな平地に、崖を背負うようにコンクリート造りの立派なナーシ(集会所)が建っており、その左手には小さいながらも、やはりコンクリート造りの住居があった。いずれも、私がオルペットと知り合ったころはなかったものである。

  「おじさん(オルペットのこと)は、茂田さんと知り合ったおかげで随分と暮らしがよくなって幸せだよね。前はそりゃ、ひどい貧乏だったからねえ」

  2年前に亡くなったジョイのおばあちゃんが語っていたのを思い出す。そういえば彼は、コロニアのジョイ・レストランの近くに家付き土地も購入していた。オルペットは初め「リース」だと言っていたが、後になって「買った」と前言を翻した。それもこれも我々からまきあげた金で購ったのだろう。

  複雑な心境のまま、ジャスティンの案内で、住まいの狭い1室に安置されているオルペットの遺体と相対した。その死に顔は穏やかで、笑いかけているようにさえ見えた。生きている人間ならまだしも、死んだ人間を忖度することなどできる術もないが、不思議と私はそのとき、腑に落ちるものを感じた。オルペットはきっと満足して逝ったに違いない、と。

  そもそもオルペットが、スノーランドの現地パートナーとなったのは偶然以外の何物でもなかった。彼にとっては天から降ってきた幸運だったに違いない。あのとき、本来なら健の結婚相手であるチューク人のレスリーがパートナーになるはずだった。ところが、結婚して間もなくレスリーが翻意して離婚したために、我々はやむ得ずオルペットをパートナーとして迎えたのである。彼はこのチャンスを最大限に生かした。そして、そのことでこれまでに得た金は総額10万ドルを下らない。その金を彼は自由勝手に使ってきたのだ。

  既に故人となっているオルペットの従兄弟でロイのショーマス(部落長)だったウネ・サトシさんが皮肉交じりに慨嘆していたことがある。

 「彼は教会のお布施に100ドルも出すんですよ。長(おさ)の私が30ドルしか出さないのにです。ナーシも私のところより大きいのを作りました。スノーランドのせいです」

  金を得て、それまでは夢物語でしかなかった豊かな生活や派手な振る舞いが現実のものとなった。クルマも持てた。そして、金づるが途絶える直前にこの世を去った。そのため、凋落した姿も人々に見せずにすんだのである。

  ロイからの帰途は満天の星空だった。星ぼしが織り成す壮大な万華鏡は、16年前、オルペットと初めて出会ったジョイ・アイランドでの夜空を彷彿させた。
 
 道々、私は考えていた。オルペットは、もともと人情味あふれた人間で、決して欲深くはなかったはずだ。もしかしたら、彼をこんなふうにした原因は私にあるのかもしれない。素朴で平穏な暮らしをしていた彼を、金の威力と魔力に溺れさせてしまったきっかけをつくったのは、ほかならぬこの私なのだ。だとしたら、悪いのは私であって彼ではなく、この時期にオルペットが逝ったことは、私にとっても好都合だったということになる。これまであった収入の道が途絶えたとき、オルペットは私を恨むことになったかもしれないし、ほかの手段でせびるようになったかもしれない。そうなれば、彼の子どもたちとの関係も恐らくはもっとギクシャクしたものになったことであろう。

  たとえいっときにせよ夢を育むのを手助けしてくれたオルペットに、いつの日か素直に感謝を捧げられるときがくることを私は願った。
 
 
岩男さんのこと
 
 オルペットの死を受けて、今回は「第2章 ここはポナペ」を中断し、<番外編>として起稿したが、ここでもう一人の死について触れておきたい。

  岩男さんである。

  岩男さんのことは、「第4回 泥だらけの熟年」の項で書いた。スノーランドでレストランをやりたいと、私とともに夢を抱いてポナペに渡った相棒である。

  岩男さんは、1994年11月29日、くも膜下出血のため亡くなった。ポナペに来て1年7か月、開業してわずか1年4か月目のことだった。前日の夕方、仕込みの最中に「頭が痛い」と言って自室に戻って臥せ、間もなくして大きな鼾をかき始めたために、異変に気づいた細君が知らせてきた。すぐさま救急車を呼んで病院に搬送したが、翌朝、帰らぬ人となった。享年46歳。あまりに早すぎる死であった。

  岩男さんの亡き骸はスノーランドの敷地内に埋葬した。「ここに骨を埋める気で来たのだから」という夫人の希望に沿った結果だった。葬儀にはナンマルキ(酋長)、在ポ邦人はじめ、大勢の地元民も駆けつけてくれた。みな、岩男さんの作るラーメンに親しんできた人々であった。

  それは、まさに青天の霹靂の出来事だった。岩男さんの自宅兼レストラン棟が竣工するのを待って来ポした彼のふたりの息子は、コロニアの私立校に通っていて、学校生活に漸く慣れてきたところだった。レストランの営業も、遅れてポナペ入りした夫人が加わり、やっと軌道に乗り始めた矢先だった。これからというときに、一家の大黒柱を失ったのである。遺族の先行きもさることながら、スノーランド全体にとっての危機でもあった。

  幸い、このときは夫人が跡を継いでやってくれることになり、大きな混乱は避けられたが、破綻は思いがけないところから生じた。ミクロネシアの法律が改定され、それまで規制なく外資出資者に与えられていた居住許可・労働許可が、「25%以上の出資者」に限定されることになってしまったのである。これによって、私と健、岩男さん夫婦が分散して所有していた日本側50%の株は、ふたり分しか有効でなくなり、役員の私と健が25%ずつ、夫人は専門職スタッフという形にせざるを得なくなった。夫人はこれを不満としたのである。話し合いはなかなかつかず、ついにはこじれ、話し合うことすらできなくなってしまった。互いに弁護士をたて、レストランの建物を買収することで決着したのは、岩男さんの死後1年以上たった1996年のことだった。その後、夫人と息子らはコロニアに移って、現地名義のラーメン店を営んでいたが、やがて日本に帰国した。

  私を信じ、はるばる南国までやってきて、夢半ばにして早世した岩男さん。それから、彼の家族。当時、私たちにできる精一杯のことはしたつもりだが、思い出すと未だに忸怩たるものがある。 

  オルペットが死んだのは、奇しくも岩男さんの13回忌にあたる年だった。岩男さんの墓前に報告しに行き、蹲(うずくま)っていると、かん高い鳴き声が頭上に響いた。傍らのサワーサップの枝に止まって梢を揺らしている小鳥がいる。セレートだった。濃い小豆色の羽毛が、木漏れ日にあたってビロードのようにきらめいた。

  セレートは、通称ポナペインコと呼ばれているが、正式和名はエビチャインコである。ミクロネシアで確認されている唯一のオウムの仲間で、ポナペの固有種であるため、ステート・バードに指定されている。ポナペの外に持ち出すと、すぐ死んでしまうと言われる不思議な鳥だ。幼鳥のときから飼育すれば言葉も覚え、手乗りにもなる。大きさはセキセイインコよりひとまわり大きい。

  生前、岩男さんが飼いたがっていたこともあって、最近まで私は一羽のポナペインコを飼っていた。初めは小屋に入れて飼っていたのだが、慣れるにしたがって日中は扉を開け放っておくようにした。すると、小屋から出て柱伝いに地面に降り、トコトコと玄関まわりをうろつき、ときには家の中まで入ってくるようになった。水や餌がほしくなれば、自分で小屋に戻った。すっかり家族の一員と化したある日の夕方、近くのヤシの木に飛び移ったインコは、それきり小屋には戻ってこなかった。それはまるで、それまで飛べるのを忘れていて、たったいま思い出したというような、急な旅立ちだった。

  「あのインコ、どうしているかな? 思えば岩男さんみたいだったね。挨拶もなしにさっさと消えちゃってさ。でも、まあ、岩男さんよりいいかもよ。ボスの骨はオレが拾うなんて格好つけなかっただけ」

  言葉にならないつぶやきが出た。

  拾うはずの者が先に逝き、拾われるはずだった者が残って墓守をしている。オルペットと出会ったのも宿縁なら、これも何かの因縁なのかもしれない。
        

                (次号に続く)
         

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