PACIFIC WAY
    
       RAMSI展開以後のソロモン諸島の政局
        −対オーストラリア関係を中心に−
  

小 川 和 美( おがわ かずよし )

はじめに
 
ソロモン諸島地域派遣ミッション(RAMSI: Regional Assistance Mission for Solomon Islands)が展開して以来、ソロモン諸島では、豪州を中心とするドナー支援の下で、まがりなりにも順調に復興が進んできた。しかしながら、2006年4月総選挙後の首相指名選挙をきっかけにチャイナタウン焼失という事態を招いたホニアラ騒乱や、その後成立したソガヴァレ政権による豪州との関係悪化など、このところソロモン諸島を巡る情勢は、必ずしも順風満帆とは言えなくなってきている。
筆者は2004年4月から2年10ヶ月の間、JICA専門家としてソロモン諸島政府に勤務し、この間の様子を現地で体感してきた。本稿では、2003年7月RAMSI派遣から2007年1月までのソロモン諸島の政局を、対オーストラリアの外交関係を軸として、とりまとめてみたい。
なお、本論は筆者個人の責に帰するものであり、当然ながらJICAおよび配属先であったソロモン政府の考え方を反映するものではない。また、職務上の守秘義務の関係で、一部記述がまだるっこしい部分があることをご理解頂きたく、あらかじめお断りしておく。
 
1.ケマケザ時代:豪州との蜜月(2003年7月〜2006年初頭)
 
2003年7月のRAMSI展開は、部族抗争に名を借りた無法者の跋扈に辟易していた一般国民に歓迎される中で行われ、実際にソロモン諸島の治安状況を劇的に好転させた。和平を拒否しガダルカナル島ウェザーコースト地区を制圧していたハロルド・ケケが投降し、ホニアラをはじめとするガダルカナル島とウェスタン州など一部地方で頻発していた抗争や略奪事件なども影を潜めて、ソロモン諸島は、紛争前の平和な社会に戻ったのである。治安回復に成功したRAMSIは、同時にその任務として財政再建と政府機能回復も大きな柱としており、そのため財務省と治安・司法部門を中心に、政府各省庁に多くのアドバイザーを送り込んだ。
ところで、PIF(Pacific Islands Forum)加盟諸国からなる「地域派遣ミッション」とはいいながら、RAMSI関係者(軍、警察、文民)はその大半が豪州人であり、これにプラスほんの少しだけその他の国、というのが実態である。RAMSIのトップである特別調整官(Special Coordinator)ポストはオーストラリアに割り当てられる合意ができており、豪州自身、「豪州はRAMSIのパトロン」との意識を隠すことなく、非公式な場では「RAMSIの支援」を「豪州の支援」と同義のように語ることも多かった。多くのソロモン人もまた、RAMSIを豪州配下としてとらえ、RAMSIへの評価と豪州への評価は直結していた(1)
さてRAMSIは、圧倒的な装備と規律のとれた軍・警察を派遣したことで、治安面についてはその立て直しは一気になしえたが、行政機能回復、経済再建は一朝一夕に達成できるものではない。たがが緩み、また優秀な人材が流出してしまっていたソロモン政府に、政策立案・実施能力は乏しく、政府の主要な方針決定、意思決定や行政実務は、もっぱらRAMSIのアドバイザーたちが中心になってとりすすめた。ケマケザ首相を筆頭に、ソロモン政府高官の多くが表立ってそれに反発することのない中で、RAMSI(豪州)はそれを当然視するが如く振る舞い、ソロモン内政に深く関与していった。そしてそれは、次第にソロモン人たちの感情を複雑なものにしていった。
たとえばRAMSI警察は、政府正常化の一環として汚職追放にも力を入れ、2005年には現役閣僚3名を逮捕したが、その中には直前にRAMSIや豪州に批判的な、あるいは非協力的な姿勢を見せた政治家も含まれていた。その一方で、多くのソロモン人が「汚職の本丸」と考えていたケマケザ首相に司直の手が伸びることはなく(2)、こうした状況はソロモン人の目に、「ケマケザは豪州の言うなりになっており、豪州に都合がいいから逮捕されないんだ」、「警察を握った豪州は、自分の意向に逆らう閣僚を恣意的に逮捕している」と映った。また、財政再建を重視した豪州が、財務省に多数のアドバイザーを送り、事実上政府の財布のヒモを握ったことも、官僚や政治家の間に「支配−被支配」の関係を、おりにふれ感じさせることとなった。
しかし、RAMSI(豪州)の立場に立てば、「おしつけ」もやむを得なかっただろう。巨額の予算を投入し、AusAIDを通じた通常の援助のみならず、警察省、財務省、軍も含め政府全体でソロモン再建に深くコミットした豪州にとっては、短期間で目に見える成果を上げる必要があったし、そのためには悠長に「自助努力」を待っていることはできなかった。現実問題として外からの「おしつけ」がなければ何も動かない、変わらない状況だったということは、この時期ソロモン政府の中枢にいた筆者は体感している。また、現職首相までも逮捕することは、「RAMSIの支配」をあまりにも露骨に見せつけることになり、政治的に得策ではないという判断があっても理解できるところであろう。
一方ケマケザ首相は、国家再建のためにはRAMSI(豪州)は必要との認識から、RAMSI(豪州)を公然と批判することは一切なかった。そもそもRAMSIは自力での秩序回復が不可能と考えたソロモン側が切望して組織されたものであり、その展開によって実際に目に見える成果が上がっている以上、RAMSIへの依存はやむを得ないものと考えられた。ケマケザ首相は、RAMSIに批判的だった閣僚がRAMSI警察に汚職容疑で逮捕されたりしても、それに抗うことはなかった。そして閣僚が逮捕されると、そのポストを餌に野党側議員を切り崩すなどといった老獪な手腕を駆使して政権基盤を固め、結局建国以来はじめて4年間の任期を全うした首相になった。
もっとも、ケマケザ首相はすべてRAMSI(豪州)の言うなりになり、傀儡化していたわけではない。自らの意にそぐわない政策案は、のらりくらりとしたまま決定を先延ばしにする「サボタージュ」によって抵抗していた。たとえば、豪州を始め多くのドナーが推進した森林法の制定については、結局閣議通過に到らず事実上の廃案になったし、世銀と豪州が進めた電力公社等の経営民間委託計画、豪EU等が推進した州政府機能強化計画なども、政府のサボタージュによって進まなかった。この背景には、一部政府高官(閣僚、次官レベル)にこれら各計画に対する強い拒否感があったからなのだが、彼らは計画の問題点を指摘して公然と拒否したり議論に持ち込んだりするのではなく、手続きを進めないことで計画を葬ろうとしていた。
ともあれ、ケマケザ首相の全面的支持(表面的であるにせよ)の中で、RAMSIは大いにその力を発揮して、ソロモンの復興を進めた。政府内では徐々に豪州に対する陰口(ソロモン人の多くは面と向かって反発しない)の頻度も上がっていったが、それでも2006年始め頃までは、RAMSI(豪州)への反発はほとんど表面にでることはなかった。2004年12月に、パトロール中の豪州人RAMSI警官が深夜何者かに狙撃され死亡した事件が起きたときも、市民の間で快哉を叫ぶ声は一切聞こえず、みな犯人に眉をひそめていた。筆者の感覚として、豪州への反感を語る者に出会う頻度が増えたと感じられたのは、2005年中盤頃からである。そして、それでも最大公約数的意見は、「なんにでも口出しをする偉そうな豪州人アドバイザーには辟易した。でも治安維持のためにはRAMSI警察には居てほしい」というものだった。
 
2.総選挙から暴動へ:反RAMSI感情の表面化(2005年末〜2006年4月)
 
反RAMSI(豪州)の声が表面化したのは、2006年4月に行われた総選挙の選挙戦の頃からである。この選挙戦で、ケマケザ施政を批判する政党や候補者たちは、「RAMSIの役割を見直す」などと訴え、これが新聞やラジオを通じて報道された(3)。逆にいうと、こうした訴えが国民に支持されるほど、RAMSIに対する水面下での嫌悪感が広がっていたとも言える。ただし繰り返しになるが、その訴えもごく一部(4)を除けば、「RAMSI警察は当面必要だ。しかしそろそろ出口プランを考える時期だ」という抑制の効いたものや、「RAMSIによる支援は必要だが、その中身はソロモン人が決めたい」、「金は出しても口は出すな」といったいささか虫のいい主張で、いずれにせよRAMSIの存在自体はまだまだ必要という意識は強かった。
さて、ソロモンでは2006年4月から5月にかけて、総選挙→リニ政権(ケマケザ継承政権)誕生→暴動→ソガヴァレ政権誕生と、政治が大きく動いた。対豪関係を中心テーマとする本稿の趣旨から若干それるが、その経緯についても記しておきたい。
4月5日に投票が行われた総選挙は、ソロモン諸島の通例通り現職の多くが落選し(50名中再選は25名)、その後各グループによる多数派工作が行われた。そして最終的には2つの政治グループが形成された。ひとつはケマケザ政権の取り組みを肯定的に評価してこれを後継しようとするグループで、旧与党グループと言ってよい。このグループは、グループ内多数派工作に勝利したリニ副首相が、ケマケザ首相、フォノ計画大臣を抑えて統一首相候補となった。
これに対して、ケマケザ政権を汚職まみれと弾劾し、外国の干渉を排除してより自立的な政府を築くべしとするグループもひとつにまとまった。旧野党グループと言っていいだろう。このグループは、メンバーの互選で首班候補を決めることに合意し、その結果最多当選回数を誇るタウシンガ議員が首相候補に指名された。
ところが、このグループ内互選投票直前にソガヴァレ前首相のグループが旧野党グループを離脱し、第三の首相候補として立候補した。そして17日の国会では、このソガヴァレ・グループの票を決選投票で取り込んだリニ副首相が、逆転でタウシンガ候補を破り首相に指名されたのである(5)
このリニ当選に激怒した群衆が市街地に繰り出して略奪行為を始めたのが、2日間にわたるホニアラ騒乱の契機である。暴徒の怒りは「汚職まみれのケマケザ政権を継承するリニが首相に選出されたのは、中国人たちが賄賂を送ったからだ」という声に集約され、中国人商店が集中的に襲撃・放火されたが、直接の引き金は、国会前に集まり、投石など次第に抗議行動をエスカレートさせ始めた群衆に向けて、RAMSI警察が催涙弾を発射したことである。国会前から蹴散らされた群衆は市内になだれこんで略奪を開始し、これに若者を中心に多くの市民が同調して収拾がつかなくなった。RAMSI警察はこうした群衆による放火や略奪を阻止することができず、当局は翌日夜の豪州軍到着まで効果的な対応がとれなかった(6)
ホニアラ騒乱では、「中国人による政治家の買収」が怒りの理由とされ、事実暴徒の襲撃対象が中国系商店に特化していたことから、メディアは中国と台湾の政治家への買収合戦や台湾の贈賄疑惑に焦点を当てた報道が多かった。しかしRAMSI警察が、日頃の鬱憤晴らしとばかりに、数を頼んだ暴徒から投石や車両放火の被害を受けていることも忘れてはならない。
RAMSI警察が、住民から公然と物理的な攻撃を受けたのは、2003年7月のRAMSI展開以来初めてのことであった。そして、RAMSI警察(豪州人)が暴動(ソロモン人)に無力な姿を晒したことは、ソロモン人一般大衆の中にあったRAMSIへの「万能幻想」を崩壊させた。その後のRAMSI軍の再展開により秩序の崩壊は免れたものの、RAMSI展開後劇的に好転していた治安状況は、暴動以降明らかに悪化している(7)
選挙によってRAMSIや豪州への批判が公然化し、それに続く暴動によってRAMSI警察への畏怖が失われたことは、ソロモン諸島の再建を主導してきた豪州にとって大きな痛手となったのである(8)
 
3.ソガヴァレ政権誕生:「微妙な関係」への変化(2006年5月〜8月)
 
暴動を契機に政局は再び動いた。タウシンガ派は即座に内閣不信任案を提出し、リニ政権打倒のためソガヴァレ議員を首相候補に擁立することで同派を抱き込んだ。不信任成立必至とみたリニ首相は就任後わずか8日で辞職し、5月4日に改めて行われた首相指名選挙でソガヴァレ首相が選出された。ホニアラ市内には歓呼の声が渦巻いた。
ケマケザ時代の野党側が母体のソガヴァレ政権は、「変化」を国民に示すための新機軸を打ち出そうとした。RAMSI(豪州)に対してもよく言えば「是々非々」、悪くいえば「非協調的」な姿勢を取り、外国人アドバイザーは政策部門でなく技術部門に集中すべきだとして、政策立案から外国人の影響を排除しようとした。その理由は、RAMSI(豪州)が政府を牛耳っていたことへの反発と、そうした意識を持ち始めていた国民たちへのPR要素もあろうが、筆者は、ソガヴァレ首相が外国人アドバイザーの主導から脱却し、自ら(首相周辺の政治家とソロモン人アドバイザー)が国造りのリーダーシップを執ることを重視したことによるものだと考えている。
こうして、これまで実質的にソロモン政府を動かしていた、豪州を中心とする外国人アドバイザーたちの、政策立案における影響力は大きく低下した。ケマケザ政権時代と違って、中心政策に直接タッチできなくなった豪州にとっては、決して愉快な事態ではなかっただろうが、それでも当初はいたずらに新政権と対立することは避けていた。ソガヴァレ政権が目玉として打ち出した「地方開発重視」をはじめとする重点施策は、それ自体は必ずしも豪州の対ソロモン援助方針と矛盾するものではなかったので(9)、しばらくは政権の性格を見極めようとしていたフシがある。リニ前首相は、RAMSIとの協調を打ち出していたとは言え、ケマケザ元首相以上にダーティな噂の絶えなかった人物であり、こうした指導者がトップに君臨することは、豪州にとって決して好ましい選択肢ではなかったという点もあろう(10)
豪州は、ソロモン政府を牛耳ること自体が目的なのではなく、ソロモン諸島が平和で民主的な政府の下で安定することを目指している(当然親豪政権であることが望ましいが)。容認できる範囲内であれば、ソロモン側が自主的・自立的に政府を運営していくことは、考え方によってはむしろ好ましいことであった。
しかしながら、組閣時に暴動扇動容疑で拘留中の議員を警察大臣に任命するという「非常識」からスタートしたソガヴァレ政権は、次第にその独善的な性格を鮮明にしていった。政府が進めた新しい地方開発政策の骨子は、外国人アドバイザーたちの提案や助言を無視した、実効性がなく汚職の温床としか思えぬものであり、次第に迷走していった。国会による事前承認が必要とされてきたRAMSIの期限延長についても、ソガヴァレ首相は、「自分の法解釈は違うから必要ない」として、豪州やニュージーランドの要請を一蹴した。そして、司法当局による「暴動煽動者」2議員らへの裁判とは別に、暴動へのRAMSI警察の責任を含めた独自調査を行うべく「暴動調査委員会」の設置を決定し、経歴を見る限り高潔とは言い難い外国人の友人を、その委員長に指名した(脚注6参照)。
豪州は憂慮の念を深めていった。
 
 
4.豪州コール高等弁務官国外追放以降:対立の表面化と激化(2006年9月〜)
 
2006年9月12日にソロモン政府が発表したコール豪高等弁務官の国外追放措置は、豪ソロ間の不協和音を一気に表面化させた。のちに「内政干渉をした」ことが国外追放の理由とされたが、当初は理由も示されず、豪州にとっては非常識きわまりない受け容れ難いものであった。豪州は直ちに報復措置としてソロモン全国会議員の入国拒否を発表したが、ソガヴァレ首相はさらに暴動調査委員会設置に異を唱えた法務長官を解任し、新たにこれまたあまり評判の芳しくない友人の豪州人(元インド系フィジー人)モティ弁護士を後任に指名して、さらに豪州の神経を逆撫でした。
ソガヴァレ首相の恣意的な人事を強く懸念した豪州は、モティ氏が1998年にヴァヌアツで少女強姦スキャンダル(証拠不十分で有罪にはなっていない)を起こしていたことを理由に同氏を指名手配し、モティ氏が休暇先のインドから豪州を通らずPNG経由でソロモン入りを強行しようとしたところで、PNG警察に要請して身柄を拘束させた。いったん保釈されたモティ氏は、そのままポートモレスビーのソロモン高等弁務官事務所に立て籠もって出頭を拒否、豪州はモティ氏の旅券を失効扱いにしたが、モティ氏は10月10日にソロモンに入国した。この移動にPNG軍用機が使用されたことから、さらに態度を硬化させた豪州はPNGにも制裁を実施し、事態はPNGをも巻き込んで地域の深刻な外交紛争へと発展していった。
ソガヴァレ首相はPNG等とも同調しつつ、豪州の「内政干渉」、「新植民地主義」への批判の度を強め、国内の懸念や批判に対しては、「豪州の意を受けたエージェント」と一蹴してこれを封じ、逆に着々と政権基盤を固めていった。
まず、上述のモティ問題で一歩も引かぬまま、豪州人をトップに戴く警察当局と対立する中で、豪州人の副法務長官を半ば脅迫する形で辞任に追い込み、法務長官代行として首相の息のかかった人物(ソロモン人)を任命した。これにより首相サイドは、法解釈や起訴不起訴の判断権を事実上掌握した。
続いて政府は2006年12月末、クリスマス休暇中の豪州人キャッスル警察長官をundesirable immigrantに指定して再入国を禁止するとともにその職を解いた。キャッスル長官は、ケマケザ政権時代に当時の警察大臣の抵抗を潰して豪州が送り込んだ人物で、PNGから飛来したモティを密入国容疑で逮捕、政府側が「モティには入国許可を出していた」との書類を提出したところ、「許可発行の日付を誤魔化している」として関係者を逮捕し、さらにこの指示が首相府から出たのではないかと睨んでソガヴァレ首相外遊中に首相府を捜索して通信記録を押収するという行動を取っていた。首相サイドにしてみれば、警察長官が豪州人であることは喉元に突きつけられた刃のようなものであり、キャッスル長官追放はそのタイミングを見計らっていたように思える。
こうして法務・警察部門から豪州の影響力を排除する一方、当初寄り合い所帯だった政権内の基盤固めも着々と進め、「目の上のたんこぶ」となりうる有力議員を次々に放逐した。まず8月に中国と親密であることを理由にヒリー商工相(元首相)を更迭、次いで10月に「健康不安等、総合的に判断して」ウルファアル蔵相(元首相)を解任し、さらに12月には政権内で求心力を持つタウシンガ副首相を辞任に追い込んだ。この一方で一部野党側議員を取り込むとともに、国会議員の権益を拡大する施策を進めて支持基盤を固め、10月と2月に野党側が連発した内閣不信任も悠々と乗り切った。
一方豪州は、依然として強硬姿勢をとり続けているものの、ソガヴァレ首相サイドの攻勢に後手後手にまわり、効果的な対応策は打ち出せていない。この時期に、トンガ暴動(11月)、フィジー・クーデター(12月)と大事件が相次いで発生し、その対応に追われたことも、対ソロモン外交立て直しの遅れに繋がったものと思われる。モティ騒動で緊迫した10月頃には、ソロモン国内で、豪州の暗黙の意向を受けた警察が、何らかの汚職容疑を仕立てて、ソガヴァレ首相を逮捕するのではないかとの観測も流れたが、12月末に豪州人のキャッスル警察長官が国外追放処分を受けて、その可能性はほぼ消えた。
 
5.現状と今後の展開
 
今日に至るまで豪州とソロモン諸島の関係は冷え切ったままであり、妥協・関係改善のための進展は見られない。ソガヴァレ首相サイドは、オーストラリアの建国記念日式典に欠席したり、その一方でハワード豪首相に直接対話を呼びかけたりするなど、相変わらず豪州への揺さぶりを続けている。
なぜソガヴァレ首相はこうも豪州と対立するのか。上述のように、ソガヴァレ首相は、豪州との対決そのものを目的化しているのではなく、ケマケザ政権時代に政府中枢に人を送り込み、ソロモン政府をコントロールしていた豪州の影響力の排除を目指している。そしてそれは、「復興はソロモン人自身のイニシアチブであるべき」という大義名分以上に、自らとその側近による集権体制を目指しているものであった。 現在のソロモン政府は、ソガヴァレ首相の志向する「側近政治」により、首相周辺から突然発せられる「指示」に右往左往しているのが現実である。
一方豪州は、高等弁務官追放という屈辱以降、振り上げた拳をおろす機会とタイミングを逸した中で、対応に苦慮している。警察長官ポストを失った以上「首相逮捕」という荒療治は不可能となり、野党側を焚きつけての政権転覆も、現在のところ望み薄である(11)。「援助停止」は国を挙げて取り組んだ対ソロモン支援を自ら否定することになり、ブラフで仄めかすことすら「帰りたければ帰れ」という反応が予期されるためおいそれとはできない。政府内やNGO組織には現政権に憂慮する声も少なくないのだが、国内には「地方開発重視」に期待する声もあり、また「政権発足1年足らずで評価するのは性急すぎ」という意見も依然多い。
こうして豪州は、政府全体の改革とガバナンス強化に向けたイニシアチブを失い、側近政治の悪弊に眉をひそめ、法や手続きを軽視して権力を濫用する首相周辺に憂慮しながらも、有効な打開策を見いだせていない。そしてその結果、政府間で非難合戦をする一方で、各セクターへの援助は以前と変わらず実施されている状況が続いている。また、台湾(12)を除く他の主要援助国・機関も、ソガヴァレ政権の独善的な志向に困惑しつつも、人権弾圧や大っぴらな汚職が発覚しているわけでもないため、今のところ「撤退」「プロジェクト延期」等の動きはなく、これまで通りの支援を粛々と継続しようとしている。
豪州は、昨年暮れから新任のRAMSI特別調整官、駐在高等弁務官を相次いでホニアラに送り込んだ。この新しい現場指揮官がどのような動きを見せるのか、しばらく注視する必要はあるが、今後しばらくは、豪州がRAMSIを通じて主導してきたソロモンの行政改革やガバナンスの強化は、かなりやりにくい状況が続くと思われる。

(1) 豪州の対ソロモン支援について簡単にまとめておく。現在の豪州の対ソロモン支援は、AusAIDを通じたものに加え、警察、財務、国防等各省がそれぞれの省予算で(つまりAusAIDを通じることなく)実施しているものがある。これらの大半はRAMSIとしての人員派遣経費及びRAMSIの名の下で行われるプロジェクト/プログラム経費である。RAMSI派遣以降は、これがら豪州支援の主要な部分だが、AusAIDはRAMSIとは別にAusAID独自のプログラムとして実施している案件もある(例:留学生支援)。そして豪州は、これら全体を「豪州の対ソロモン支援」として対外発表している。ちなみに豪州側からの正確な数字は発表されていないが、ソロモン側の推計では、豪州支援の7割以上は派遣豪州人の人件費に要しており、ソロモン側にはこれをもって、「豪州は援助しているといいながら、実際はそのほとんどを自国に持ち帰っている」と批判する声がある。
(2) ケマケザ元首相に対しては、権力を失ったのちの2007年10月に脅迫容疑での裁判が始まった。
(3) たとえば2005年12月16日付のソロモンスター紙に掲載されたウルファアル元首相の発言(電子版;http://www.solomonstarnews.com/?q=node/6432)。筆者が記憶する限り、これが、有力政治家がRAMSI撤退について公に口にした最初の報道であった。
(4) たとえばその後暴動を扇動したとして逮捕されることになるダウサベア候補(中央ホニアラ選挙区=当選)は、支持者に対して「RAMSI警察は追い出す。収監されているミリタントは皆解放する」という公約を掲げた(同選挙区の選挙区民から聴取)。しかしこうした極端な主張は新聞紙面を飾ることはなかった。
(5) 第一回投票ではタウシンガ22票、リニ17票、ソガヴァレ11票。決選投票ではタウシンガ23票、リニ27票だった。ソガヴァレは直後の取材で、決選投票では自分はタウシンガに投票したが他の10名はリニ支持に回った、と語っている。
(6) ちなみにソガヴァレ首相はのちに、同首相が進めようとしている暴動調査委員会設置を豪州が強く批判していることに関し、「豪州は、調査によってRAMSI警察(ほぼイコール豪州警察)の失敗が明らかになるのを恐れているからだ」とした(2006年9 月17日のSIBCを通じた発言)。実際には「警察によるダウサベアラ2議員への捜査をストップさせるためのもの」との動機が流出した閣議文書から暴露されたが、確かにRAMSI警察の対応に不手際があったのは事実だとの声は現地では強い。筆者に対してもあるソロモン人警察幹部が、「暴動の際に豪州人たちが我々(ソロモン人警察幹部)の意見を聞いてくれたらあんなことにならなかったはずだ」と、非公式の場で話したことがある。
(7) 9月には10〜20歳代のギャング団による連続押し込み強盗事件が発生、こののちキャッスル警察長官は外交団に対し、犯罪発生件数が年初に比べ倍増していると語った。
(8) 本論とは直接関係はないが、同年11月に同じく暴動の起きたトンガと異なり、ソロモン諸島では暴動参加者の摘発・逮捕はほとんど進んでいないことも指摘しておきたい。また、この暴動が自然発生的なのか、何者かが仕組んだものなのかは、未だに解明はされていないが、ソロモンでは必ずしも中国人が日頃から憎悪の対象になっているとは思えないところから、筆者は多分に仕組まれ扇動されたものではなかったかと考えている。この点については別途いずれ詳しく論考してみたい。
(9) 但し、ケマケザ首相が「サボタージュ作戦」によって進めなかった、連邦制を軸とした新憲法の制定(武装各派と政府との和平協定であるタウンズビル協定での合意事項であり、政府は進める義務を負っている)について、ソガヴァレ首相は推進する意向を示しており、これは、筆者の知る限り豪州の望むところではない。
(10) 暴動発生直後、「豪州コール高等弁務官が、リニ首相誕生は好ましくないと語った」と記された豪州人アドバイザーの電子メールが暴露され、これが内政干渉にあたるとして暫時問題になったことも付記しておく。
(11) 10月の内閣不信任案審議では、与党側議員から公然と「野党は豪州の意を汲んだ傀儡」、「豪州は内政干渉を試みている」等の激しい豪州批判演説が行われ(これを国民はラジオにかじりついて聞いていた)、野党側の切り崩し工作は完全に失敗、ソガヴァレ首相は造反者をほとんど出さぬまま悠々と不信任を乗り切った。
(12) 台湾は逆に現政権と親密な関係を築き、コンディショナリーの低い資金援助を増額させてソガヴァレ政権から重宝されるとともに他ドナーの顰蹙を買っている。
        
   

 

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