PACIFIC WAY
     
    2006年フィジー総選挙と複数政党内閣の成立
      −「複数政党内閣」制の由来と運用上の問題について−

 


苫小牧駒澤大学
東 裕

はじめに
 2006年5月6日から13日にかけて投票が行われたフィジーの下院議員総選挙において、与党SDLが下院議席71議席中36議席の過半数を獲得し、ガラセ首相が再び首相の座に就き、5月24日には新内閣が発足した。閣内にはフィジー労働党(FLP)議員9名が入閣し、前回2001年総選挙後のようなFLPの排除はみられず、憲法規定に則った「複数政党内閣」(Multi-Party Cabinet)が組織されることになった。本稿では、この「複数政党内閣」制という特異な制度について、その制度の由来・目的を紹介し、これまで及び今 後考えられる運用上の問題点について考察するものである。
 
1.マラの「国民統合政府」構想
                                   
 フィジーにおいて複数政党内閣制の起源と考えられるのは、故カミセセ・マラ(Ratu Sir Kamisese Mara)が1980年に提唱した「国民統合政府」(government of national unity)構想である。当時、マラ首相率いる「同盟党」(Alliance)は下院総議席52議席中36議席という絶対多数を確保し安定した政権運営を行っていたが、1982年の半ばに予定されていた下院議員総選挙を控え、野党支持の国民間で政府への不満が高まっていた。

  マラ首相は、このような状況が次期総選挙での同盟党の敗北をもたらすのではないかとの不安を感じただけでなく、インド系とフィジー先住民系国民の対立の激化が「内戦」を惹起しかねないという危機感すら抱いた。そこで、当時のインド系野党「国民連合党」(National Federation Party)のレディ(R. J. Reddy)党首に政党の枠組みを超えた国民統合政府の形成を呼びかけた。だが、結局この試みは実を結ばなかった。

  この時のマラの「国民統合政府」構想が、現在の1997年憲法の「複数政党内閣」制に引き継がれたものと考えられる。現憲法の制定当時、マラが大統領を務め、フィジー政治に大きな影響力を持っていたことに鑑みれば、この推測には十分な合理的理由がある。1980年当時のマラの国民統合政府構想は、人種の垣根を越えて国家の中で最高の才能をもった人材を大臣に登用し、諸民族集団の代表を内閣に配置することで国民統合を達成するという高邁な理想に裏打ちされたものであった。この発想は、まさしく現在の「複数政党内閣」制の理念そのものである。

  後にマラはこの当時を回想し、国民統合政府(挙国一致内閣)について次のように語っている。
「その頃(=1982年の選挙準備期間中)は、二大政党のバランスが良く保たれ、比較的良い関係が続いていたので、再び国民統合による挙国一致内閣を設立するという私の長年の夢を実現する好機だと考えた。1970年の憲法制定会議の準備会談が開かれていた69年の12月の段階で、私はイギリスの議会制度に代わるべき仕組みを思い浮かべた。その時点では十分に認識してはいなかったが、メンバーシップ制度はこの線に沿って動いていることがわかった。(中略)

  挙国一致内閣と違って、連立政権は有力な多数党が存在しない場合に成立する一時的な形態で、次の選挙で有力な多数派が形成される見込みが立つまでの間だけ存在するものである。従って、選挙は自陣営の人たちと一緒になって対立陣営の成功にけちをつけ、失敗はとことん批判するという醜い状態になりかねない。

  これとは逆に、挙国一致内閣であれば最適任者を登用し、同時にフィジーの各種民族グループからも応分の代表を出す機会が与えられる。大臣のポストの配分も、人口と直前の選挙における各政党の議席数に比例して決められる。特に上級の職務においては、厳密な配分さえ可能となるだろう。そうなれば、内閣の構成員は内閣の政策を支持し促進しようとするだろうし、うまくすると政府の政策は各民族の視点からではなく、全国民的視点から評価されるようになるかもしれない。

  私のこの提案は、報道機関から様々な受けとめ方をされた。それは彼らが連立政権と、私が考える挙国一致内閣とを混同していたからだ。また、彼らが賞賛する伝統や馴染み親しんだイギリス式制度に対して、堅固な執着があったからである。おそらくは、これら二つの制度の対立的性格が、格好の新聞種になったのだろう。」(1)

  ここには、マラの考える国民統合政府のメリット、しばしば同視されがちな連立政権との相違、そしてイギリス型議院内閣制とは異なる発想に基づくものであることがが述べられている。それにもまして、2006年5月の総選挙の結果、二大政党化が顕著になった今日、とりわけ注目に値するは、二大政党間のバランスと両党間の関係が良好な時期こそ挙国一致内閣(国民統合政府)を実現する好機ととらえている点である。

  1997年憲法下での過去2度の複数政党内閣の試みは、一度目は文民クーデタによって潰え、二度目はその試みを首相が事実上拒否したことによって、数年にわたる裁判所を舞台にした二大政党間の不毛な政治闘争をもたらしただけであった。いま三度、複数政党内閣が形成された現在、その帰趨を占う上で、このマラの認識は、示唆に富んだものであったと再評価される時が来ないとも限らない。ただし、この「好機」を活かすことは現実にはきわめて困難な政治課題であることはいうまでもないが……。
 
2.フィジー憲法再検討委員会(FCRC)の「複合民族政府」構想
 
 1995年に憲法(1990年憲法)の見直しを行い、新たな憲法を制定するための調査委員会として設置された「フィジー憲法再検討委員会」(Fiji Constituion Review Commission)は、その報告書の中で「複合民族(複合人種)内閣(政府)」(multi-ethnic (multi-racial) cabinet (government))という名称で国民統合政府の採用を提唱した。

  そもそも、同委員会は1993年9月の両院一致の決議を受けて、1995年3月15日に当時のマラ大統領が設置したもので、設置に際し大統領が同委員会に要請した目的の一つが、「人種の調和と国民統合及びすべてのコミュニティーの経済的社会的向上を促進するような憲法の見直し」にあった。この要請を受けていくつかの新たな制度が提案され、その一つが「複合民族政府」制であった。

  FCRCでは、新たに制定される憲法の目的が、人種間の調和、国民統合、そしてすべての民族コミュニティーの経済的・社会的発展の促進にあるとし、なかでも国民統合が究極の目標と位置づけられた。そのため、すべての民族が行政権を共有する「複合民族政府」の形成が必要で、これこそがフィジーの憲法問題を解決する唯一の方法であると考えられたのである。

  そして、FCRCはその実現のため、議院内閣制の枠組みのなかで二つの方策を検討した。一つは、政党間の自発的協力による複合民族政府の形成であり、もう一つは複合民族政党への支持の拡大、すなわち政党の複合民族化であった。しかし、フィジーの政治的現実からすれば後者の実現は当面不可能であることから、前者を現実化するための憲法制度が考案された。

  つまり、政党間の自発的協力を促進するようなインセンティブの提供ということであり、それは政党間の最大の関心事である選挙における協力を促進するような選挙制度の提唱として現れる。それが、オープン・シート(非民族別議席)を15選挙区各3人選出の大選挙区選択投票制(Multiple Alternative Vote System : MAV)の提案であった。しかし、この提案は国会の「憲法再検討両院合同特別委員会」(JPSC)で修正され、1997年憲法で採用されたのは小選挙区選択投票制(Alternative Vote System : AV)であった。

  さらにJPSCは複合民族政府の形成についてもFCRC報告よりさらに踏み込み、政党間の自発的な協力によるのではなく、憲法でその形成を義務づける修正を施した。すなわち、「FCRCは、フィジー憲法の諸規定の第一目標として複数民族政府の出現を促すべきであると勧告したが、JPSCはこの原則に賛成しさらにそれを推し進めて、国会において代表されるすべての政党をできる限り公平に代表する複数政党内閣を首相は形成しなければならないという条項を憲法は含む」べきだとしたのである。この勧告を受けて1997年憲法99条(1)~(9)項の「複数政党内閣」(multi-party Cabinet)規定が作成されるのである。

  FCRC報告では、国民統合に向けての条件作りにあたって、暫定的な制度として「国民統合政府」は有意味であるが、永続的な制度として憲法に組み込むことは不適当であると判断していた。それが、なにゆえ、JPSCでは恒久的な憲法制度として「複数政党内閣」制を採用する修正が行われたのか。筆者の調査では、これまでのところその理由は明らかではなく、数多ある要調査課題の中の一つとして残されている。

  さて、「複数政党内閣」を定めた99条であるが、9項まであるうちの(1)ないし(5)項は次のように規定している(2)

  第99条 (1)大統領は、首相の助言により、その他の国務大臣を任命する。
(2)国務大臣に任命されるためには、下院議員または上院議員でなければなら ない。
(3)首相は、本条に定める方式により、その定める数の大臣を含む複数政党内 閣を形成しなければならない。
(4)本条に従って、内閣の構成は、できる限り、下院に議席を有する諸政党を 公平に代表すべきである。
(5)内閣の組織にあたって、首相は下院の総議席の少なくとも10%の議席を 有するすべての政党に入閣要請を行い、その下院に占める議席数の割合に 応じて内閣に代表されなければならない。

  つまり、内閣の組織にあたって、首相は下院議席の10%以上の議席(=8議席)を有する政党への入閣要請が義務づけられ、その閣僚数は下院の議席数に比例するように配分することが求められているのである。したがって、単独で過半数の議席を獲得した政党があっても、他に10%以上の議席を獲得した政党があれば、ただちに単独政権を形成することができず、その前に当該政党に対する入閣要請をおこなうことが憲法上の義務とされているのである。この規定は、次にみる南アフリカの暫定憲法(1994年)第88条の規定ときわめてよく似た内容となっている。
 
3.南アフリカ共和国暫定憲法(1994年)の「国民統合政府」構想
 
 フィジーの複数政党内閣制のモデルになったと考えられるのは、1994年の南アフリカ共和国暫定憲法で採用された「国民統合政府」(government of national unity)であろう。というのも、FCRCは報告書の作成に先立ち、1995年から96年の間に、フィジーと同様の民族問題・人種問題を抱える南アフリカ、モーリシャス、マレーシアを歴訪し、憲法制度の調査を実施しているからである。この時期はまさしく、南アフリカが暫定憲法下で国民統合政府を組織し、新憲法の検討を行っていた時期にあたる。

  南アフリカは、周知のようにアパルトヘイトで知られる移民白人によるアフリカ先住民や混血のカラードやインド人を含めた非白人を白人と隔離し差別する人種差別政策が、国法によって堂々と行われていた国であった。この国にあって、各種アパルトヘイト法が廃止・修正されていくのは、人種別の三院制国会(白人・カラード・インド人)を採用した1983年憲法下に入った1985年以降のことであった。それでもまだ、この三院制の中にアフリカ原住民を代表する議院はなかった。

  その後、次第にアパルトヘイトが崩壊し、1993年に至りアフリカ先住民系を含む26の政党・団体が一堂に会する「複数政党会議」が4月に開催され、9月の三院制臨時国会では暫定執行評議会法が可決成立し、初めてアフリカ先住民を含む複数政党会議構成政党・団体の代表で構成される暫定執行評議会という政治機構が機能するようになり、12月には「暫定憲法」(3)が国会で可決成立した。

  この暫定憲法の下、1994年には全人種参加の総選挙が実施され、アフリカ先住民であるマンデラ大統領の政権が誕生し、新たな憲法制定のための制憲議会が開始され、1996年12月には新憲法が採択され、翌97年2月に施行されることになった。このおよそ3年間の暫定憲法下のうちの一定期間、フィジーの複数政党内閣制のモデルと考えられる「国民統合政府」が組織されたのである。

  そこでの国会は二院制を採用し、下院は比例代表制で選出される400名の議員で組織され、上院は9つの州の各議会から10名ずつ選出される議員で組織された。行政部は、下院議員の中から両院議員によって選出される大統領が国家元首として行政権を保持し、大統領と2名の副大統領のほか、大統領が任命する27名の大臣によって構成される内閣が組織された(暫定憲法88条1項)。この内閣においては、議会に少なくとも20議席を有する政党は、内閣に大臣を送り込む権利があると定められた(同条2項)。これがいわゆる「国民統合政府」であった。

  ちなみに、第88条2項は、およそ次のような規定であった。すなわち、「国会(Nationnal Assembly)において、少なくとも20議席を有する政党で、国民統合政府(government of national unity)に参加すると決めた政党は、他の国民統合政府に参加することを決めた政党が国会で有する議席数を勘案して、保有議席数に比例する1またはそれ以上の閣僚ポストを配分される権利を有する。」(4)

  すでに紹介したように、フィジー1997年憲法99条の複数内閣条項とこの南アフリカ暫定憲法88条2項を比較すると、その基本的内容が酷似していることが容易に理解されよう。すなわち、@フィジー憲法では下院の10%以上の議席を擁する政党となっている点が、南アフリカ暫定憲法では国会において少なくとも20議席以上、となっている点(20議席は二院制国会の下院議席(定数400)の5%に相当)、及びA国会で保有する議席数に比例する閣僚ポストが配分される点である。数字の違いこそあれ、ここには発想の共通性がみられよう。

  それゆえ、南アフリカ共和国暫定憲法(1994年)第88条の国民統合政府の規定は、フィジー諸島共和国憲法(1997年)第99条の複数政党内閣規定のモデルであるとみて間違いないだろう。
 
4.2006年総選挙後の「複数政党内閣」の組織と運用
 
 2006年総選挙結果の特徴は、本誌小川論文でも指摘されているとおり、@民族別二大政党の誕生、すなわち先住民系・インド系の二大政党化ないしは二極化と、A選択投票制における逆転当選の減少、すなわち第一順位最多得票者が落選した選挙区はわずか2選挙区にとどまった、という点である。このことは、選挙制度の面からいうと、小選挙区選択投票制の小選挙区制の部分が機能し、選択投票制の部分は実際上、ほとんど意味をなさなかったと評価できよう。

  このような結果は、過去二度の総選挙の教訓から、先住民系・インド系それぞれのフィジー国民が、民族的利益を優先した投票行動をとったからであるとすれば、今後、一部国民には容易に理解できない複雑さをもった選択投票制を廃止して、単記投票の単純小選挙区制に移行しても選挙結果はほとんど変わらず、むしろ現行の投票方法の複雑さからくる無効票(今回は投票数の約10%)を減少させるメリットの方が重要ではないかと考えられる。そして、二大政党化が今後も継続するとすれば、複数政党内閣制についても、その運用次第によって、制度自体の改廃を迫られることもあり得ないわけではない。

  さて、今回の総選挙後に組織された複数政党内閣についてみてみたい。今回の組閣では、総閣僚数が17名から24名に増員されたなかで、31議席を獲得し第二党となったFLPから9名が入閣し、憲法に定められた複数政党内閣が形成された。1999年のインド系のチョードリー首相の入閣要請を先住民系の政党であるフィジー人党(SVT)が拒否したような入閣要請の拒絶もなければ、2001年の総選挙後のガラセ首相の組閣時のように27議席を獲得したFLPが事実上入閣要請を拒否したとして、1名のインド系閣僚を除いて他はすべて先住民系といった違憲の組閣を行うこともなかった。

  2001年の組閣については、その後FLPのチョードリー党首が、憲法99条違反であるとして訴訟を提起し、2003年7月18日に最高裁判所で違憲の判断が下されたという経緯があったため、今回の組閣にあたっては慎重な対応が取られたということであろう。もっとも、FLPが下院議席数に占める割合からすれば、計算上は10名の入閣になるはずであろうが、この点は別段問題にはならなかったようである。

  こうして大きな混乱もなく、第2次ガラセ複数政党内閣が発足し、まもなく3か月を迎える。チョードリー複数政党内閣は、インド系首相の下で18名の閣僚の過半数の12名をフィジー先住民系とすることで、先住民系に十二分の配慮を示し国民統合政府の形成を図ったが、それでも僅か1年後に文民クーデタによって政権が崩壊し、国民統合どころか両民族間の亀裂をさらに深める結果に終わった。いくら閣僚数で過半数を占めても、結局は首相のリーダーシップの下に内閣が運営され、その政策はインド系を優遇するものであるとの先住民系の不満がクーデタを惹起したのである。

  これに対し、フィジー先住民系が首相を務める第2次ガラセ内閣は、閣僚構成からみて、憲法が予定する形での複数政党内閣が初めて形成されたといえる。しかも、民族別にわかれた二大政党化が進行したなかでの複数政党内閣の形成である。では、このような状況下で、どのような政権運営ないしは政治変動が考えられるだろうか。

  第一に、複数政党内閣制という制度が本来予定するような運営の可能性が、たとえそれがきわめて困難ではないかと予想されるとしても、まず検討されなければならない。第二に、第二党であるFLPからの入閣がもたらす閣内不一致、政策の不一致による政権運営の困難の発生の可能性も当然視野に入れなければならないだろう。そして、第三に、本誌小川論文が指摘するように、両民族内で政治分化が起こり民族横断的な政党が登場する可能性も、現に発生しているFLPの内紛を目の当たりにするとあながち根拠のない憶測とも言い切れないだろう。

  いずれにしろ、今後、新たなガラセ複数政党内閣がどのように運営されるかは、研究者の無責任な立場からすれば、きわめて興味深い。とはいえ、一外国人研究者がフィジーの新たな混乱の発生をいたずらに待ち望んでいると誤解されては困るので、若干の希望的観測を交えながら、新内閣の今後を展望してみたい。

  まず、先住民系のSDLが過半数を確保したという総選挙結果を踏まえてガラセ首相が再任され、かつ第二党となったFLPに憲法規定に従いその獲得議席数相応の閣僚ポストを提供し、複数政党内閣が形成されるまでの過程については、何ら今後の紛争の種になるような問題は存在しない。この点で、過去2回の総選挙後の組閣と決定的な違いがある。

  先住民系SDLのガラセ首相の下、閣内及び下院においてSDLが多数を確保した中でおこなわれる政権運営であれば、たとえ政権内にインド系FLP閣僚を擁したとしても、そのことによって政権運営が困難になるとは考えにくい。また、インド系国民の中から文民クーデタを実行したジョージ・スペイトのような人物が出ることもありえないだろう。そう考えると、当面、ガラセ複数政党内閣は安定した政権運営を行うものとおもわれる。

  そして、その過程で両民族の協調が促進され、民族主義を基調とする政治が克服されるような状況が5年以内に出現するならば、複数政党内閣制はその歴史的使命を果たしたとして憲法から削除されることになろう。あるいは、その逆に、予想外のなんらかの民族的利益が鋭く対立する問題が新たに発生し、両民族の対立が深まり、複数政党内閣の継続が困難になれば、もともとウエストミンスター型議院内閣制とは両立するはずもない矛盾をはらんだ出来損ないの制度であったとして、憲法から削除されることになろう。

  すでにみてきたように、複数政党内閣制は、もともと人種的・民族的対立のある国の国民国家形成過程において国民統合を実現する法的・政治的手段として考案された暫定的制度であったのだから、短命に終わる宿命にある。ただそれが、その使命を果たしてフィジー憲法史に名を残すか、それともその目的を理解されぬまま歴史的失敗と評価されて終わるか。すべては為政者の手に委ねられているのである。
 
主要参考文献 
 東 裕 「フィジーの国民統合と「複数政党内閣」制」、『憲法研究』第32号、2000年。
  「フィジー政治の論理−国民統合政府の理念と現実−」、山本真鳥・須藤健一・吉 田集而編『オセアニアの国家統合と地域主義』JCAS連携研究成果報告6、2003年。

  中原精一『アフリカ憲法の研究』、成文堂、1996年。

(1)  カミセセ・マラ『パシフィック・ウェイ−フィジー大統領回顧録』(小林泉・東裕・都丸潤子訳)慶應義塾大学出版会、2000年、pp.277-279。この中でマラが言及している「メンバーシップ制度」とは、独立への準備段階の英領植民地で導入されていた制度で、植民地下の立法評議会議員のうち現地人で行政官僚を兼任していない議員の中から選ばれた何人かが、閣僚に準ずる責任を与えられ、それぞれが定められた行政各部を担当し、政策案件を執行評議会にかけ、立法評議会に提出する法案を作成した。メンバーは集団責任を負うことが期待され、執行権はないものの内閣類似の機能を果たした。フィジーでは1964年に導入され、マラ自身も3人のメンバー(他の2人は現地在住のインド人とイギリス人)のうちの一人として、土地・農業・漁業・林業及び鉱物資源担当の「大臣」を経験した。(『同書』、pp.101-110参照)
 
(2) フィジー1997年憲法99条1項〜5項の原文は次の通り。
 99. (1) The President appoints and dismisses other Ministers on the advice of the Prime Minister.
 (2) To be eligible for appointment, a Minister must be a member of the House of Representatives or the Senate.
 (3) The Prime Minister must establish a multi-party Cabinet in the way set out in this section comprising such number of Ministers as he or she determines.
 (4) Subject to this section, the composition of the Cabinet should, as far as possible, fairly represent the parties represented in the House of Representatives.
 (5) In establishing the Cabinet, the Prime Minister must invite all parties whose membership in the House of Representatives comprises at least 10% of the total membership of the House to be represented in the Cabinet in proportion to their numbers in the House.
 
(3) この暫定憲法の正式名称は、Constitution of the Republic of South Africa Act 200 of 1993 [Assented to 25 January 1994][Date of Commencement : 27 April 1994] Act to introduce a new Constitution for the Republic of South Africa and provide for matters incidental thereto.

(4)
 南アフリカ共和国暫定憲法(1994年)第88条2項の原文は次の通り。
 88. (2) A party holding at least 20 seats in the National Assembly and which has decided to participate in the government of national unity, shall be entitled to be allocated one or more of the Cabinet portfolios in respect of which Ministers referred to in subsection (1)are to be appointed, in proportion to the number of seats held by it in the National Assembly relative to the number of seats held by the other participating  parties.
 

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