PACIFIC WAY

  
     
大きな“曲がり角”に向けて
             −
パラオの新政権スタート−     


 上 原 伸 一(うえはら しんいち)

 
 パラオでは、昨年11月2日(火)総選挙(正副大統領選挙及び上下院議員選挙)が行われ、今年1月1日から新政権並びに第7期国会がスタートした。レメンゲソウ大統領は再選を果たしたが、副大統領はチン氏が初当選、チン氏の資格問題などで揉め事が続いた上院では半数近い議員が入れ替わった。

 独立から10年を経て、パラオは着実に変わりつつある。完成が遅れているコンパクトロード(コンパクト=アメリカとの自由連合協定の締結に伴い、アメリカの費用で作られるバベルダオブ周回舗装道路)も漸くかなりの部分が出来上がり、部分的に使用のめどがつくようになって来た。道路が完成し、首都がマルキヨクに移れば、自然環境も社会システムも大きく変化する。

 今回の総選挙では、同時に、国民発案による憲法改正5件と憲法制定会議設置の国民投票も行われ、憲法改正4件と憲法制定会議設置が承認された。今後、憲法制定会議で憲法の見直しが行われ、2008年の通常総選挙でその提案の諾否が国民の投票により決定されることになる。

 一方で、コンパクトによるアメリカからの財政支援はコンパクト発効後15年となっており、2009年9月には終了する。当然のことながら、その時点でアメリカからの財政支援がなくなればパラオの国家財政はもたなくなる。この4年の間に、15年経過後の財政支援に関するアメリカとの交渉をまとめ挙げておく必要がある。

 まさに、新しい国家運営に向けて大きな曲がり角となる4年間がスタートする。今年1月8日から16日まで行った現地取材を中心に、パラオの最新状況をレポートする。
 

T. 選挙結果
(1) 正副大統領選挙

<大統領>
 大統領選挙には、現職のトミー・レメンゲソウJr.氏と実業家のポリカープ・バシリウス氏、元アンガウル州知事ベン・ロベルト氏の3氏が立候補したため、9月28日に予備選挙が行われた(1988年の大統領選挙で1位のニラッケル・エピソン氏と2位のローマン・メチュール氏の票差が僅か31票しかなく、開票を巡り裁判で争われた為、それ以降正副大統領選挙に関しては、立候補者が3名以上いる場合には予備選挙を行い、上位2名が本選挙に臨むことになっている)。

 予備選挙の結果は、1位トミー・レメンゲソウ氏4907票(65.6%)、2位ポリカープ・バシリウス氏1941票(26.0%)、3位ベン・ロベルト氏429票(5.7%)で、レメンゲソウ大統領とポリカープ氏が本選挙に進んだ。この予備選挙の投票率は57.9%とパラオの選挙では異例の低投票率となった。ちなみに、1992年の予備選挙は約73%、1996年は77%であった。本選挙の投票率はそれぞれ予備選挙を上回っている。今回は立候補者が3人とはいえ、レメンゲソウ大統領の再選が確実視されていたこと、ベン・ロベルト氏は前回の大統領選にも立候補していたが、予備選挙で5人中5位156票という状況であったことから、実質的に予備選挙そのものに殆ど意味がなかったことがこの低投票率の原因であるといえよう。ちなみに、この時点での登録有権者数は12934名であった。

 11月2日の本選挙でも、レメンゲソウ大統領が6,494票(65.0%)を獲得し、3,268票(32.7%)のポリカープ氏に大差をつけて再選を果たした。今回の大統領選挙では、レメンゲソウ大統領再選を脅かす最大の存在はクニオ・ナカムラ前大統領だと言われていた。レメンゲソウ氏自身は、大統領としては必ずしも大きな成果を国民の前に示したわけではないが、大きな失点も犯していない。しかも、上院サイドではチン氏の資格を巡る争いが延々と続き、特段政治的な成果を挙げた人物は他に居なかった。一方で、独立を達成し、アメリカからの援助のみならず日本からの多大の援助を引き出し、インフラ整備を積極的に行ったナカムラ前大統領への国民の評価は高く、前回の選挙直後から、1期休んで再出馬という声は根強くあった。レメンゲソウ氏自身このことを意識して、日本人の血が入っていることを日本での太平洋サミットの際に公言したりして、日本からの援助引き出しに勢力を注いだ。ナカムラ氏周辺には、様々な人々が大統領選挙を巡って早くから出入りをしていたが、ナカムラ氏自身は途中で多少の気持ちの揺らぎを見せながらも、最後まで“立候補せず”という姿勢を崩さなかった。

2004年正副大統領選挙結果(予備選挙9月28日・本選挙11月2日)
  予備選挙:登録有権者数12,934名 投票数7483名(投票率57.9%)
  本選挙 :登録有権者数13,191名 投票数9996名(投票率75.8%)

【大統領選挙】
<予備選挙>   トミー・E・レメンゲソウ・Jr.(大統領) :4,907票(65.6%)
ポリカープ・バシリウス(実業家)    :1,941票(26.0%)
ベン・ロベルト(元アンガウル州知事) : 429票(5.7%)     
              白票
     :  22票
              無効      :  92票
              却下      :  10票
<本選挙>    トミー・E・レメンゲサウ・Jr.(大統領) :6,494票(65.0%)
          ポリカープ・バシリウス(実業家)    :3,268票(32.7%)     
              白票      : 173票
               無効      :  8票
               書き込み   :  53票
               却下      :  0票
【副大統領選挙】(立候補者2名のため予備選挙なし)
         カムセック・エリアス・チン(元司法大臣)  :6,919票(69.2%)
         サンドラ・スマン・ピエラントッチ(副大統領):2,812票(28.1%)
              白票      : 247票
               無効      :  7票
               書き込み    :  11票
              却下       :  0票

 

 ポリカープ・バシリウス氏は、パラオの大実業家で北部を地盤とする実力者である。パラオ自治政府設立から長いコンパクト論争を経て独立に至るまで、指導力を発揮して来たパラオの政治リーダー第1世代の一人である。とはいえ、ここ数年の間に彼の政治力は衰えを見せており、数年前に、同族であり仲間であった大酋長レクライ・ラファエル・ギルマン氏と争いを起こし、レクライの首をすげ替えようとして敗れている。また、初期を除いては、公職には就かずに来た。そのポリカープ氏がこの時期に大統領選に立候補した真意がどこにあるのかは謎である。

 前副大統領であったサンドラ・ピエラントッチ氏は早くから大統領への意欲を見せてはいたが、諸般の状況(彼女自身の人気、実力の問題と共に、女性が強い政治力を持つパラオでも、表舞台のトップに女性が立つことについては強い異論がある)から、大統領への立候補をためらい最終的には副大統領に再度立候補した。全体の状況を考えると、サンドラ氏が大統領選に立候補しても、勝利の可能性は必ずしも高くはなかったと思える。しかしながら、レメンゲソウ氏、ポリカープ氏、サンドラ氏の三つ巴の争いになったならば、これほどの大差にはならず、ある程度の混戦になったとも考えられる。
 
<副大統領>
 副大統領への立候補は、カムセック・チン氏とサンドラ・ピエラントッチ副大統領(当時)の2人のみであった。2000年の選挙で上院議員に当選しながら、資格問題(後述)で結局上院議員の席に着く事が出来なかったチン氏は、今回の総選挙において、正副大統領・国会議員を含めて最も早くに正式に立候補表明をし、早くから選挙運動を展開したのに対し、サンドラ副大統領は、大統領への意欲を強く持っていたため最後まで立候補表明が出来ず、立候補受け付け締め切りギリギリになって副大統領への立候補届け出をした。

 チン氏は、ナカムラ前大統領の2期目にナカムラ氏に招かれて司法大臣を務めその手腕に対する評価は高かった。それ故、2000年の選挙では上院議員に当選したのだが、上院多数派により資格問題を仕掛けられ、結局上院議員にはなれなかったが、その事がチン氏の人気を更に高めていた。

 一方で、サンドラ氏は、大統領を目指しながらも、2000年の時点では副大統領に甘んじたという経緯もあり、今回は最後まで大統領選出馬に意欲を持ち、様々なネゴシエーションを行ったが、女性大統領へのアレルギーを始めとする逆風に対応出来ず、最終的には締め切り間際での副大統領への立候補となった。このこと自体が、彼女の立場を悪くしたことは間違いない。更に、本人は、「副大統領の職は、実質的な権限がなく面白くない。しかしながら、厚生大臣としてはその権限を生かして十分な実績を上げた」と自負していたが、巷ではこの4年間での医療行政について必ずしもプラスの評価はされていなかった。

 上院議員資格問題を巡りチン氏の人気が高まっていたとはいえ、現職の強みはパラオでも相当のものであり、チン氏の善戦または接戦というのが筆者の予想であった。現地パラオの日本人の間でも、当初は同様の見方が多かった。選挙戦後半になると、サンドラ氏のもたつきからチン氏有利という見方も出て来ていた。とはいえ、2倍以上の差をつけてのチン氏の圧勝を予想する声はなかった。

 サンドラ氏は、1992年の選挙で副大統領に立候補し、予想以上の善戦をしながらもレメンゲソウ氏に敗れた。1996年の選挙では、上院議員に立候補し当選。2000年に再び副大統領に挑戦した。この時は、甥のアレン・シード氏との1騎打ちというパラオでは珍しい構図となった(親戚関係を大事にするパラオでは、こういうケースでは何らかの調整が図られるのが通常)。この時に、サンドラ氏は南部の女性大酋長ビルン・グロリア・サリー氏と手を結び、それまで苦手であった女性票の獲得に成功して、選挙に勝ったといわれている。パラオの伝統社会では、表の世界は男性の酋長が仕切り役だが、その男性酋長の任免権を持っているのは女性の酋長である。母系制という社会システムをとっていることもあり、女性の発言力は強い。ビルンは、伝統社会の中では女性のトップに立つ地位であり、酋長制度とは別に婦人団体のリーダーも務めている。副大統領当選後もサンドラ氏はビルンとの繋がりを大切にし、訪日の際にもビルンを連れて来るなど、ビルンとの繋がりを中心とした選挙対策については気を配って来た。昨年の太平洋芸術祭では、ビルンを前面に出して、公式の席で女性が表に出ることを演出し、女性大統領アレルギーに対抗して自らの道を開こうとしていた。しかしながら、結果として副大統領への立候補となり、政治家としての姿勢の曖昧さが浮き彫りになってしまった。

 前回の選挙の際に、ピーター・スギヤマ氏が急遽大統領に立候補し、レメンゲソウ氏を相手にかなりの追い上げをみせたが、700票弱の小差で敗れた。これについて、ナカムラ前大統領は、「ピーターは立候補表明が遅すぎた。私が彼の立場だったら彼のタイミングより少なくとも半年以上前に立候補表明をし、自らの政策を人々に浸透させ、大統領としての自らのイメージを選挙民に植え付けるようにした」と語っていた。この観点からすると、サンドラ氏は有力者を味方につけるという選挙戦術については、気を配っていたが、大統領に立候補するか副大統領に立候補するか最後まで逡巡したことにより、政治家として国民に対し自らのイメージと自らの政策を浸透させるという点に関して失敗したということになろう。これに対し、チン氏は、上院議員資格無しが確定してから間をおかずに、副大統領選挙に向けての動きを見せ、今回の選挙では自らの司法大臣としての実績を掲げ、大統領、副大統領、国会議員すべてを含めて、誰よりも先に公式に立候補を表明し、選挙運動を展開していた。パラオの選挙は金まみれ、とは昔からよく言われてきた。そうした側面もかなりあったのは事実ではあるが、パラオの選挙民はしたたかで、必ずしもそれによってのみ選挙が左右されて来たというわけでもない。そのことは、今回の上院議員選挙の結果やいまだに75.8%という高い投票率が維持されていることからも窺える。

(2) 国会議員選挙
<上 院>
 上院は全国1区定員9名からなる。今回の選挙では上院に激震が走った。今迄の選挙では、基本的には現職議員が有利で、国会議員選挙においては極端な変動は起こらずに来た。例外は前回の選挙だった。上院の定数及び区の変更が行われ、それまで3区14人の定数であったものが、全国1区9人に変更されたため大激戦となり、現職上院議員は4人しか当選せず、大幅な入れ替えとなった。しかしながら、これは定数及び選挙区画変更に伴う特殊な事例である。しかも新人の内、スランゲル・ウィップス氏は下院からの鞍替えであり、下院でも絶えず圧倒的な支持を集めて当選してきた人物である。

 この時は上院の中で二大勢力のひとつであったジョシュア・コシバ氏グループは、5名の当選を果たし、今迄同様の存在を示していた。

 ここで勃発したのが、チン氏の議員資格問題である。チン氏は、2000年の総選挙で5位(定数9人)で上院議員に当選したが、議員資格について多数派から疑問が呈された。パラオ憲法第9条6項では、国会議員の資格として「選挙に先立って(直前に)5年以上パラオに居住していること」が必要とされている。チン氏は長くアメリカ陸軍に勤めていたが、1997年にナカムラ前大統領により司法大臣に指名された。本人はその少し前にパラオに戻っているが、“選挙直前5年間の居住”という条件を満たしているかどうかという点については微妙なところがあった。裁判所は、チン氏について被選挙人資格を満たしていると判断したが、一方で、憲法第9条10項の「国会両院は各々、選挙と各院議員の資格の唯一の判断者であり、議員を懲戒し、議員の3分の2以上の評決をもって議員を停職または除名することができる。−略−」という規定は今回のチン氏の件にもあてはまるという認定もした。その後の法廷闘争で、選挙では当選の認定を受けたが、上院主流派により、議員就任を拒否されていたため、議員就任の可否については裁判所の判断に拠るのであり、本項に拠るのではないというチン氏側の訴えは認められず、逆に議員になる前の判断であり、議員の除名ではないから3分の2以上の評決は不要で、過半数で決定することが出来るとの判決が出された。この判決に基づき2003年2月5日に上院は、「チン氏は居住要件を満たしていない」という決議を5対3で可決し(過半数による可決。上院定数のうちチン氏分1名が欠員となっており、8名のうち5名が主流派で3名がチン氏擁護の非主流派。3分の2以上の評決が要件であれば、決議は成立しなかった)、チン氏の上院議員資格なしの決定をした。これを受けて2003年4月2日に補欠選挙が行われ、ルシアス・マリソル氏が上院議員に選ばれた。総選挙後2年半に亘り上院9名のうち1名の議席が確定しないという事態が続いた。この間、上院主流派に対する国民の反発が強まり、リコールの動きが広まった。リコール投票は行われたが否決された。

 異常な争いにより上院議員の席を手に入れ損なったチン氏だが、この騒動の間に却って人気が高まった。補欠選挙には、チン氏は立候補しなかったが、当選したマリソル氏の1,494票に次ぐ1,341票の書き込み投票を得た(パラオでは立候補しない人間に対する書き込み投票が認められている)。一方、多数派は国民の多くの批判を浴びることになった。リコールは成立こそしなかったが、リコール投票が行われること自体批判の高まりを示している(得票数の25%以上の署名によりリコール投票が行われる)。

 補欠選挙により9議席目を獲得したルシアス・マリソル氏も多数派のグループであったこともあり、これ以降多数派は大統領府と激しく対立し、法案や予算の成立がしばしば停滞した。元々、上院と大統領府とはどの時代も対立が強かったが、この間の激しさは特段であった。チン氏の資格問題への批判も併せて、今回の選挙で有権者がどのような判断を下すか、上院選挙は特段の注目の的であった。

 結果は、前述のように大変動が起こった。9名の現職議員全てが立候補したが、そのうちの4名が落選、その4名は全員が多数派であった。少数派の3名はスランゲル・ウィップス氏が1位、メリブ・メチュール氏が3位、ユキオ・デンゴクル氏が4位と全員高位当選を果たした。前期多数派で、当選を果たしたのはジョニー・レクライ、ジョシュア・コシバの2氏である。新たに当選を果たした4名は、中間派か前期少数派よりの人達である。パラオ国民は、裁判所の事実認定をも無視して、「国会議員の資格を決められるのは国会だけ」という憲法の規定にすがって勢力争いを延々と続けた多数派に対し厳しい審決を下した。

 新上院議員の中で、目立つのはのは2位で当選したアレン・シード氏である。パラオの若手実業家で、下院議員として活躍していたが、前回の選挙で副大統領に立候補し、叔母のサンドラ氏に敗れ野に下っていた。ここ数年、シード氏の事業は行き詰まるものが多くなって来ていたが、その中での高位当選であるところから、今後の彼の動向が注目される。
 
<下 院>
 下院は各州1名計16名で構成されている。順当に現職議員が議席を守り、現職が落選したのはペリリューのみであった。オギワルでは、現職のノア・イデオン氏と元職のエリア・トロプ氏の大接戦となった。当初、選挙管理委員会は、246票対245票の1票差で元職のトロプ氏の当選としたが、イデオン氏の抗議を受け、数え直しをしたところイデオン氏の票に3票がプラスされ、2票差で現職のイデオン氏の逆転当選が決定した。これに関しても、票の数え直し等を巡り、裁判も起こされたが、前期の上院に於けるチン氏資格問題の教訓が生かされたか、パラオとしては珍しく短期間のうちに最終決着をみた。

 ペリリューでは、新人のジョナサン・イサエル氏が当選を果たした。彼は、2000年の下院選に立候補したが、この時は善戦しながらも現職のゲルデンス・メヤー氏に敗れている。1996年の選挙の際には、立候補はしなかったが、上院第3区(ペリリュー以南)で269票の書き込み票を得ている。その殆どがペリリューでの票と考えられるので、ペリリュー地区からの当選の下地はこのころから出来始めていたといえる。下院事務局メンバーから、2000年の落選後はサンドラ副大統領(当時)のスペシャルアシスタントに移り今度の当選を果たした。サンドラ氏が惨敗したのと対照的である。今後が注目される新人議員である。

U. 住民投票の結果
(1) 国民発案による憲法修正
 パラオでは、全有権者の25%以上の署名による請願が有れば国民発案で憲法修正の発議が出来る。国民発案による憲法修正は、直近の通常総選挙の際に行われる住民投票により過半数の賛成を得、なおかつ4分の3以上の州で過半数を制した場合に承認される。

 今迄、この制度により憲法修正が認められたのは、1992年の1回だけである。この時は、コンパクト締結による独立に強い意欲を示したエピソン大統領(当時)が、憲法の非核条項の規定に基づいた住民投票では,コンパクト締結は不可能と考え(パラオ憲法第13条6項では、核の実験、貯蔵、処分に関しては国民投票による4分の3以上の賛成が必要とされており、それまで7回の国民投票では最高73%で4分の3の壁を越えることは出来なかった)、彼自身のリーダーシップにより有権者の25%を超える署名を集め国民発案による憲法修正住民投票(自由連合協定に関しては憲法の各条項を適用せず、住民投票よる過半数の賛成で承認できる)を実現、62%の賛成を得て修正を実現した。

 なお、1996年の総選挙時には、憲法修正の住民投票を通常総選挙時に限らず随時行えるようにとの憲法修正案が国民発案により出されたが、小差で否決されている。

 今回は、レメンゲソウ大統領のリーダーシップにより、5件の憲法修正案件が国民発案により住民投票にかけられた5件の内容は以下の通り。

@ 多重市民権の容認【賛成5,794票、反対3,458票、カヤンゲル州を除く15州で賛成多数により承認】

 パラオでは、パラオ人の血が入っている者しかパラオの市民権を持つことは出来ない。一方で、パラオ人の血が入っていても、21歳以上の者が他国の市民権を有した場合、パラオの市民権を失うことになっている。近年では、米国を中心として外国に留学し、そのまま就職して居住し続ける者が増加している。その場合、現地で市民権を得るケースが増えているが、これによりパラオの市民権を失うと、パラオの土地を所有することが出来ない。結果、外国で職を得ている人々と母国パラオとの繋がりが薄まってしまう。パラオの伝統的な社会システムや文化は、その豊かな自然との関係で醸成されて来たが、そこで基本的に重要な役割を果たすのが土地の所有である。

 パラオ人の外国進出は今後も続くことが予想されるが、一方でパラオには多くの外国人が出稼ぎに来ている。パラオの伝統的文化の一体性、アイデンティティーを保つためにもパラオの市民権を持つ人々が減ることは好ましくない。だからといって、海外で暮らす者にその国の市民権を得ずに不自由な生活に甘んじろと強制することは出来ない。そこで、海外で暮らす者の生活の利便とパラオ人としての一体性を両立するために、多重市民権容認の考え方が出てきた。国民発案の憲法修正案文では、「アメリカの市民権を得て生活していることは、パラオの血を有してパラオ人であることに何の害も与えない」と明記して、「パラオ人の祖先を持つパラオ国民は、他国の市民権を得た時、パラオの市民権を維持することも放棄することも出来る」となっている。なお、この修正は、法修正発効以前にパラオの市民権を放棄した人には適用されない。チン氏上院議員資格問題の際に、チン氏が米軍の将校であった以上米国の市民権を持っているはずで、パラオの市民権を失っているという議論が起こり、この問題をより複雑にしたことも本修正承認に相当の影響を与えている。

A 大統領・副大統領のランニングメイト制【賛成5,380票、反対3,839票、カヤンゲル州・ソンソル州を除く14州で賛成多数により承認】

  今迄、大統領と副大統領は別々に立候補し、選挙されていた。そのため、敵対する2人が大統領と副大統領に選ばれることが珍しくなく、行政府内の不調和、非効率を生んでいた。この弊害はかなり前から指摘されており、今回の憲法修正となった。一方では、正副大統領が別々に選ばれることにより、相互監視の役目を果たし、権力者による独裁を防ぐという反対論もあったが、今迄の実態に照らし、パラオ国民は憲法修正を選んだ。これにより、次回の選挙から、正副大統領はアメリカの様に1組で選出されることになる。

B 国会議員の任期制限【賛成5,598票、反対3,567票、カヤンゲル州・ソンソル州・トビ州を除く13州で賛成多数により承認】

 1981年の自治政府発足以来、大統領府と国会とりわけ上院とは折り合いが悪く、たびたび激しい衝突を繰り返し、ある意味では政治の停滞を招いていた。上院では、古くからジョシュア・コシバ氏を中心とする派とピーター・スギヤマ氏を中心とする派が二大勢力として対立する構図も続いていた。もっとも、2000年の選挙で、選挙区変更と定数減による影響とスギヤマ氏が大統領選に立候補して落選したため、スギヤマ氏の派は消滅し、コシバ氏を中心とする派が多数派を制し、前大統領ナカムラ氏に近いスランゲル氏やデンゴクル氏は少数派となっていた。

 議会内の勢力争いと議会と大統領府との対立の二重構造で、法案や予算の成立が停滞することが日常的になりつつあった。実際、ここ10年ぐらいは、財政年度の初めに年間予算を成立させられず、暫定予算でしのぐことが日常化していた。ちなみに、パラオでは予算が成立しないと一切の国家支出が出来ないため、国家公務員の給料支払いも不可能になる。ナカムラ氏も大統領時代に、「予算を人質にとる議会のやり方は不当だ」と強く批判していた。

 このような情勢から、古手の議員を一掃して、風通しの良い国政運営を目指し、議員の任期を合計して3期までという憲法修正となった。議員任期は4年であるので、合計12年が上限となる。上院、下院、連続、非連続を問わないので大変厳しい任期制限である。今回、国会議員に選ばれた多くの議員がこの規定に引っ掛かり、次回選挙には立候補出来なくなる。例えば、今回上院議員に初当選したアレン・シード氏は、1989年から2000年まで3期下院議員を務めており、次回の選挙には、上院であれ下院であれ立候補出来ない。議会では、「大統領は2期連続までしか務められないが、1期休めば次には立候補出来る。それに比べて、今回の議員任期制限は厳しすぎて公平さを欠く」と不満が渦巻いている。なお、今回の総選挙において選ばれた国会議員に対しては適用されず、次回選挙からの適用となる。ちなみに、スランゲル氏によれば、上院9名中4名、下員16名中12名がこの憲法修正で次回立候補出来なくなるとのことであった。

C 国会1院制【賛成5,125票、反対3,991票、カヤンゲル州・アルモノグイ州・アンガウル州・ソンソル州・トビ州で過半数の賛成を得られず否決】

 パラオは人口2万人程の小国であり、財政的にも厳しい中で国会を2院にしておく必要はない。効率の観点から言って1院で十分である、というのがレメンゲソウ大統領の持論であった。経済的自立の見通しが立たない小国にあってはもっともな意見である。

 しかしながら、直接自らの利害が絡む議会からの反対はもちろんだが、1院だと少数意見を含めたバランスをとった決定がしにくいという反対意見も強かった。結果としては、住民投票の過半数の賛成は得られたが、5州が反対し、4分の3の州の承認という壁を越えられず、否決された。反対した5州は、16州の中で、州の大きさが小さい方から5番目までの州である。下院は、州の大きさや人口に関係なく1州1名の定員からなっており、もしも1院制になって各州代表の権利がなくなると、これらの州の意見は国会に殆ど反映されなくなってしまう。少数意見を守るためのバランスが働いた選択といえる。

 今回の上院議員選挙の結果にも表れているように、パラオ国民はバランスを取ることについては相当に巧みな国民である。元々、パラオの伝統社会では、10人の酋長による合議が基本になっている。その合議の仕方も、下位の酋長達の合議が先に整えば、特段のことがない限り上位の酋長達はそれを認めるのが基本である。また、前述した様に、表の社会を仕切るのは男性酋長だが、その男性酋長の任免権は女性酋長が持つというように、伝統的にバランスのとれた社会構成となっていた。この伝統が、現代政治にも生かされていると筆者は考えている。ちなみに、住民投票の賛成票も5つの憲法修正案の中で一番少なかった。

D 統一的な国会議員報酬制創出【賛成6,466票、反対2,600票、ソンソル州を除く15州で賛成多数により承認】

 これまで国会議員の報酬は、国会によって制定される法によって決められていた。報酬増額については、それを決めた任期中の議員には適用されないため、“お手盛り”については歯止めはかかっていた。しかし、議員の再選が過半数という状況では、次期議会に向けての実質的な“お手盛り”が行われていた。これに対応するために、議員報酬の決め方を統一し、勝手な名目での報酬増をさせないようにというのがこの修正案の狙いである。あくまで、議員報酬の定め方を統一的にするだけで、その増額や減額は議会によって定めることが出来る。但し、増額については、それを決めた任期中の議員に適用されないことはこれまでと同じである。

 この憲法修正に伴い、議会では、議員報酬法を新たに定める作業が進められた。しかしながら、上院、下院、大統領府それぞれの意見が一致せず、旧議会では決定出来ず、新議会に持ち越された。最終的に、1月21日議会が通した法案に大統領が署名して議員の新報酬制度が定まった。内容は、“議会に1日出席する毎に1000ドル、年間の上限を5万ドルとする”というものである。定額報酬ではなく、出席あたりの報酬にしたところがポイントである。レメンゲソウ大統領は、「金額に異論はないが、上限が5万ドルだからといって、年間50日しか議会を開かないということでは困る。しかし、議会も報酬上限にとらわれず必要な議論をしてくれると信ずるので、いつまでも議論を長引かせることなくここで妥協した」と語っている。なお、この法案への大統領署名は、数名の上下両院の議員を伴って、マルキヨクの新首都の建物で行われた(新首都はまだ現実には機能していない)。
 

(2) 憲法制定会議の設置
 憲法14条1項には、「国会は少なくとも15年に1度、有権者に『憲法の改正あるいは修正のための会議が必要か』を問うことが出来、有権者の過半数が賛成すれば、その6カ月以内に、憲法制定会議が法に定められた方法に従って開催される」と定められている。ところが、1980年の憲法制定以来、憲法制定議会は1度も開催されていない。独立後の、第5期(1997年−2000年)の国会では、憲法制定会議を求める声が強かったが、「独立したばかりの時期に憲法制定会議を開いて論議することは、国造りの上でも阻害要因になるし、各国からも政治の安定性を疑われる恐れがあり得策ではない。その上、憲法制定会議は大きな装置であり、財政的負担も大きい。国民発案による憲法改正は可能であり、必要な憲法改正はより軽い手続きで実現出来る国民発案か議会による発議により行われるべきである」とナカムラ大統領(当時)が強く反対し、結局実現しなかった。

 2001年にスタートしたレメンゲソウ政権は、当初から憲法改正に向け積極的な姿勢を見せた。今回、国民発案により住民投票に掛けられた5件の内、多重市民権の容認、一院制議会、正副大統領のランニングメイト制については早くから具体的な主張を行ってきた。この3点については、大統領から国会に正式に提案され、国会で議論されたが、憲法改正発議に必要な4分の3以上による議決を得ることが出来ず(下院では多重市民権の容認と正副大統領ランニングメイト制は通った)、国民発案による憲法改正に切り替え、その過程で議員任期制限と統一的議員報酬制度創出の2点が加えられた。

 こうした大統領側の動きに対し、議会側では当初から憲法制定会議開催を求める声が強く、特に上院では、大統領の個別の憲法改正案件を否定し、憲法制定会議での議論を求める流れとなった。結果として、大統領側は国民発案による具体的な憲法修正を5点に亘り住民投票に付託、一方、議会側は憲法制定会議開催を発議し住民投票に付託するという異例の展開となった。

 結果は、賛成5,271票、反対3,856票、全州で賛成が過半数を占め、憲法制定会議開催は承認された。サンティ・アサヌマ上院議員は、「国民は必ずしも十分な政治的教育を受けているわけではない。住民発案による憲法修正は、議会に影響を与えるために大統領が仕掛けたこと。憲法制定会議は大変だが、きちんとした議論が必要」と語っていた。

 現在、議会にて憲法制定会議開催のための法律制定作業が行われているが、準備に時間がかかるため、会議開催は5月頃になるというのが大半の見方である。次回総選挙まで4年間をかけて議論を尽くし、そこで出た憲法修正案については次回通常総選挙での住民投票にかけられる。承認のための要件は、国民発案による場合と同じで、過半数の賛成を得、なおかつ4分の3以上の州で過半数を制することが必要。
 

V.新 体 制
(1) 行政府
 レメンゲソウ大統領、チン副大統領の新コンビによる政権が発足した。再選を果たしたレメンゲソウ大統領は、いち早く、基本的に全閣僚の留任を打ち出した。実際には、サンドラ前副大統領が兼職していた厚生大臣には、代わりにビクター・ヤノ氏が指名された。また、司法大臣はパラオの市民権を持たないマイケル・ローゼンタール氏が、いわば“お雇い外人”として初の大臣を務めていたが、今回任期満了に伴い帰国するため、チン副大統領が司法大臣を務めることになった。チン氏は、かつてナカムラ政権時代に司法大臣を務め高い評価を得ている。極めて手堅い閣僚人事といえる。

 その他の留任閣僚は以下の通り。財務大臣エルブール・サダン、資源開発大臣フリッツ・コシバ、社会文化大臣アレキサンダー・メレップ、国務大臣テミー・シュマル、教育大臣マリオ・カトサン、商業貿易大臣オトイチ・ベセベス。
 

(2) 議 会
 議会では、毎回新しいメンバーによる議長等の役職選出で揉めるのが通常であり、特に上院では議長の確定が遅れることが多かった。しかしながら、今回は前述の様な選挙状況もあり、上下両院共に1月1日第7期議員就任後早々に役職が決定し、統一的な議員報酬制度の創出や憲法制定会議の準備に取り組んでいる。

 上院は、議長にスランゲル・ウィップス氏、副議長にユキオ・デンゴクル氏、院内総務にアレン・シード氏が選出された。

 下院は、議長にアウグステイン・メセベルー氏(マルキヨク州)、副議長にオカダ・テイトン氏(ガスパン州)、院内総務にウィリアム・ニライケラウ氏(アルモノグイ州)が選出された。
 

W.最新状況
(1) 観光客急増
 2004年は前年に比べ観光客が急増し、今迄の最高となった。昨年11月末現在の統計資料(パラオ観光局発表資料)によれば、2003年が1年間で総数63,328人だったのに対し、2004年は11月末現在で81,291人と1カ月を残して大幅な観光客増を示している。その主たる原因は、台湾からの観光客の急増である。2003年1年間で27,857人であった台湾からの観光客は、昨年は11月までで39,078人となっている。台湾からの観光客のみならず、日本からの観光客も、11月時点で前年1年間をわずかながら上回る21,454人となっている。また、韓国からの観光客は2003年1年間で312人だったのが、昨年は11カ月で4,642人と10倍以上の増加を見せている。アメリカからの観光客も増加しており、全般に観光は極めて好調な伸びを示した。

 しかしながら、台湾からの観光客は年により大きく増減を見せる。かつて、1997年には31,240人が来島したが、翌年には18,565人と急減、更に1999年には10,936人にまで落ち込んだ。これに対し、日本からの観光客は、長らくの間20,000人から25,000人の間で上下している。昨年は、太平洋芸術祭がパラオで開かれており、これによる観光客増があり、今年同じ傾向が続くかどうかは必ずしも明確ではない。

 とはいえ、観光客増により昨年のパラオのローカル収入は増大しており、2004年財政年度のローカル収入は予算をクリアして、歳入全体の過半数を堅持し続けている。

 観光がパラオの主な収入源であることは昔から変わらないが、かつてはパラオの政治リーダーたちは、観光以外の収入源にも期待をつなぎ、農業、漁業等による経済発展にも夢を託していた。しかしながら、独立後10年を経て、観光以外の分野に於ける経済発展は起こっておらず、今後とも大幅な発展が望めないことから、観光がパラオの収入の中心であることをはっきりと認め、それに沿った経済展開を考えるようになっている。レメンゲソウ大統領も、今年1月筆者とのインタビューで、「パラオの経済の中心は観光である。確かに観光は“水物”のところがあり、とりわけ台湾からの観光客は年による増減が激しい。しかしながら、今後ともパラオ経済の中心は観光であることは間違いない。そういう意味では、毎年着実な数が来島する日本は最も大事な相手である。今後とも日本からの観光客の着実な増加を目指したい。それと共に、日本、台湾以外からも観光客は増えており、パラオの素晴らしい自然環境を生かして、今後はヨーロッパからの観光客誘致にも力を入れたい」と語っていた。
 

(2) 急変する環境
 陽炎の様に完成が先へ先へと延びているコンパクトロードだが、ここへ来て、ほぼ全体にわたって道が出来上がってきた。とはいえ、森林を切り開いて一応道が出来ただけで、地ならしも済んでおらず車が通れる状態に無い部分もかなりある。

 一方では、マルキヨクの新首都の周辺は既に舗装も終わっている。アイライの空港からマルキヨクまでの道路については、舗装は一部しか出来ていないが、2月上旬からは一般の車も通行が可能になる。ここが開通すると、コロールからマルキヨクに行く時間が大幅に短縮される。

 現在は、一度西海岸沿いのアイミリキの道路を通って島の真ん中を横断する形でマルキヨクに向かっており、1時間強かかる。アイライの空港から真っ直ぐ北に進むことが出来れば、東海岸のマルキヨクに行くのに、西側を回らずに済み、1時間弱でマルキヨクまで到達する。全てが舗装道路になれば、おそらくは40分前後でコロールからマルキヨクまで行けることになろう。

 1月に政府が国会に出したコンパクトロードに関するレポートによれば、完成を今年末と予想している。森林の切り開きが基本的には終わっているので、地ならしと舗装だけであるならば、詰めて作業すれば数カ月での完成も不可能ではない。しかしながら、今迄も諸般の事情により、工事が一時中断したり、ペースダウンしたりしているので、最終的にいつ完成するか正確なところは予想がつかない。

 レメンゲソウ大統領によれば、コンパクトロード完成に合わせて、今年末にはマルキヨクへの首都移転を実現する方向で、外側は完成している新大統領府と国会の建物の上下水道等のインフラ整備を急いでいるとのことであった。新首都に移転するのは、正副大統領府と国会のみで、その他の省庁はコロールに残る。コロールとマルキヨクの車での行き来が非常に激しくなることが予想される。その時、バベルダオブの自然環境は、様々な影響を受け変化することであろう。また、人々はコロールとマルキヨクを行き来する必要に迫られ、大きな生活パターンの変化が訪れることになる。

 これが実現するのが、今年末なのか来年末なのかは分からないが、いずれここ1-2年の内にコンパクトロードの完成と新首都移転による自然と社会生活の大きな変化が訪れるのは間違いない。

 パラオの主要産業である観光についても、昨年の伸びがそのままではないにしても、少しずつでも増加していけば、今迄6万人前後であった観光客が、10万人を見通せるようになる。そうなった場合、ホテルを始めとする諸施設や上下水道、電気、ごみ処理といったインフラの問題が改めて浮上して来る。コンパクトロードの完成と観光客増は、間違いなく車のさらなる増加をもたらす。増えていく廃車にどう対応するか、また駐車場の問題も深刻になって来るだろう。
 

(3) 曲がり角の4年間
 前述のような大きな変化が押し寄せつつあり、コンパクトマネーが2009年に終了することと合わせて、パラオにとってこの4年間は大きな曲がり角になると思われる。

 コロールのMドックにあるごみ捨て場は、既に殆ど満杯状態である。しかも、一切の分別なしにごみが捨てられているため、様々なものがしみ出て、周辺の海を汚染している。パラオ政府は、アイミリキに埋め立てのごみ焼却処理場を作ることを日本政府に援助として申し入れた。しかし、今の状態でごみ焼却場を作っても、ごみの分別がされていないため、汚染問題や場合によっては事故すら起きかねない状況にあり、日本としては、パラオ側が、ごみ処理の基本システムプランを立てるのが先決だと考えている。単に目先で必要な施設等を援助として渡すのではなく、一緒になって新たな社会システムを作り上げていくパートナーとして援助をしていくという考え方である。大変に良いことであるが、これを実際に推し進めるのはなかなか困難である。ごみ処理のトータルプラン作りから日本が援助したとしても、社会システムやものの考え方が違うので、必ずしも日本が持つ先進的かつ合理的な方法がパラオ側に受け入れられるとは限らないし、計画ではそのようになっても、実際に社会がそれに沿って動くかどうかは難しい問題である。しかし、日本とパラオの協力によりそこを乗り越えて実質的かつ効果的な援助が実現することを期待する。

 数十年前までは、全て土に還るもののみを消費していたパラオでは、ごみは土に捨てれば自然に戻るという感覚が深く身に付いている。豊かな自然環境を守りながら、新たな文明を享受するためには、伝統的な精神文化やアイデンティティーを保ちながらも、社会システムに対する新たな考えを人々が共有出来るようにならなければならない。その時期が遅れると、環境とのバランス、社会の中でのバランスがおかしくなり取り返しがつかなくなる恐れがある。そういう点でも、この4年間はパラオにとって大きな曲がり角である。

 憲法制定会議の議論においてあるいはそれと並行して、いかなるスタイルの国造りを目指すのか根本から話し合って、伝統を生かしながらも、現代生活に対応する新たな社会意識を模索することが求められている。

(本稿の執筆にあたっては、選挙関係の資料等多岐に亘って、在パラオ大使館の三
田貴氏にお世話になった。誌面を借りて御礼申し上げる。)

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<トミー・E・レメンゲソウ・ジュニア大統領略歴>
 1956年2月28日、コロール生まれ。ミシガン州立グランドバレー大学で犯罪学の学位を得る。その後、ミシガン州立大学で政治学の修士課程を収める。
 1984年、28歳で最年少の上院議員。1985年〜1992年上院議員。
 1992年、36歳で最年少の副大統領。1993年〜2000年副大統領。
 2000年、44歳で最年少の大統領。2004年の選挙で再選される。
 

<カムセック・エリアス・チン副大統領略歴>
 1949年10月10日、ペリリュー生まれ。1971年ハワイ電子工科学校卒業(電子工学準学士)、1975年ハワイ大学卒業(心理学学士)。
 1991年、米陸軍士官学校を卒業し米陸軍に入隊。1990年には中佐になり、1994年から在クワジェリン米ミサイル発射部隊副司令官を務め1997年に退役。
ナカムラ大統領の招請を受け、1997年〜2000年パラオ司法大臣。2000年の選挙で上院議員に選ばれるが、資格問題で議席にはつかず。
 2004年、副大統領に選出。2005年1月1日〜副大統領兼司法大臣。
 

<国会議員選挙>
●上院議員選挙 (上位9名当選)
.スランゲル・ウィップス・シニア (Surangel Whipps, Sr.)  当 7350 (現) 
.アレン・R・シード (Alan R. Seid)      当 7182
.メリブ・メチュール (Mlib Tmetuchl)   当 6497 (現)
.ユキオ・P・デンゴクル (Yukiwo P. Dengokl)   当 5331 (現)
.ジョニー・レクライ (Johnny Reklai)   当 5055 (現)
.アルフォンソ・N・ディアス (Alfonso N. Diaz)   当 4968
.ジョシュア・コシバ (Joshua Koshiba)   当 4846 (現)
.サンティ・サウル・アサヌマ (Santy Saul Asanuma)   当 4816
.ドクター・カレブ・オットー (Dr. Caleb Otto)   当 4284
10.ラキウス・L・マルソル (Lucius L. Malsol)     4235 (現)
11.セイト・アンドレス (Seit Andres)     4228 (現)
12.ポール・W・ウエキ(Paul W. Ueki)     3712
13.カルロス・H・サリー (Carlos H. Salii)     3266
14.スティーブン・カナイ (Steven Kanai)     3258 (現)
15.ハリー・ルバス・フリッツ (Harry Rubasch Fritz)     3123 (現)
16.イメルダ・ナカムラ−フランツ (lmelda Bai Nakamura-Franz)  3102
17.ディルメイ・L・オルケリール (Dilmei L. Olkeriil)      2572
18.エミリアノ・A・カズマ (Emiliano A. Kazuma)     1157
19.ミリアム・ティマロン (Miriam Timarong)     1048
20.エドボ・テメンギル(Edobo Temengil)      957
21.ギリアン・エトマイ・ジョハネス (Gillian Etumai Johanes)   847
22.マルガリタ・ボルハ・ダルトン (Margarita Borja Dalton)    565
 
●下院議員選挙 (選挙区上位1名当選)
1.コロール選挙区 (Koror)
ジョエル・トリビヨン (Joel Toribiong)        当 1423 (現)
ローマン・ヤノ (Roman Yano)     907
サム・ヨヨ・マサング (Sam Yoyo Masang)     897
2.アイライ選挙区 (Airai)
ノア・サアライムル (Noah Secharraimul)        当 465 (現)
チャールス・イヤー・オビアン (Charles lyar Obichang)     432
3.ガラルド選挙区 (Ngaraard)
アントニオ・卜二一・ベルス (Antonio "Tony" Bells)      当 462 (現)
タダシ・サクマ (Tadashi Sakuma)          360
4.アルモノグイ選挙区 (Ngeremlengui)
ウイリアム・ニライケラウ (William Ngiraikelau)   当 248 (現)
アキノ・マコール (Akino Mekoll)      84
スウェニー・オギドベル (Swenny Ongidobel)      96
5.エサール選挙区 (Ngchesar)
サビノ・アナスタシオ (Sabino Anastacio)    当 235 (現)
モゼス・Y・ウルドン (Moses Y. Uludong)     179
6.カヤンゲル選挙区 (Kayangel)
フロレンシオ・ヤマダ (Florencio Yamada)    当 117 (現)
マサユキ・アデルバイ (Masayuki Adelbai)      93
エヴェンス・べーエス (Evence Beches)      64
7.アルコロン選挙区 (Ngarchelong)
ケライ・マリウル (Kerai Mariur)    当 509 (現)
ユシム・サトゥ (Yusim Sato)          179
8.オギワル選挙区 (Ngiwal)
エリア・卜ロプ (Elia Tulop)    当 246
ノア・イデオン (Noah T. Idechong)      245 (現)
9.マルキョク選挙区 (Melekeok)
アウグステイン・メセベルー (Augustine Mesebeluu)    当 191 (現)
カズオ・アサヌマ (Kazuo Asanuma)      96
ヘナロ・アントニオ (Henaro Antonio)      113
10.アイメリーキ選挙区 (Aimeliik)
カリストス・ニルトロン (Kalistus Ngirturong)    当 393(現)
11.ガラスマオ選挙区 (Ngardmau)
ルシオ・ニライウェト (Lucio Ngiraiwet)    当 143 (現)
ローブル・ケソレイ (Rebluud Kesolei)     134
12.ガスパン選挙区 (Ngatpang)
オカダ・テイトン (0kada Techitong)    当 131 (現)
13.ペリリュー選挙区 (Peleliu)
ジョナサン・ショー・イセエル (Jonathan "Cio" Isechal)    当 358
ゲルデンス・イド・メヤー (Gerdence Ide Meyar)          288 (現)
14.アンガウル選挙区 (Angaur)
マリオ・S・グリバート (Mario S. Gulibert)        当 213 (現)
ヴィクトリオ・ウエルベラウ (Victorio Uherbelau)         96
15.ソンソル選挙区 (Sonsorol)
フラビアン・カルロス (Flavian Carlos)    当 92 (現)
16.トビ選挙区 (Hatohobei)
卜一マス・M・パトリス (Thomas M. Patris)    当 54 (現)
エメシオ・H・アンドリュー (Nemecio H. Andrew)      46

 
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