PACIFIC WAY
   
   
消滅の危機、ナウル共和国のいま
   
                                            小林 泉(こばやし いずみ)


ナウル消滅のニュース 
 『太平洋の小さな島国ナウル共和国は、この数週間にわたり電話通信ネットワークの故障などで、海外との交信が全く遮断されている。この孤立化の中で、今は誰が大統領なのか、島がどうなっているのか、誰にもさっぱり分からない・・・・』。こんなニュースがBBCから流れたのは、200321日である。これがアメリカやオーストラリアを中心とする、ある種マニアックの人々の間でたちまち注目された。
 国連にも加盟する一国家が丸ごと不明になってしまったというニュースだから、実際はたいそう深刻な話である。しかし、南洋の島々”というイメージは、どこかユーモラスで深刻さがストレートに伝わってこない。「国が忽然と姿を消すとは、前代未聞のミステリー!」「だれもアクセスできない孤島国家のロマン」「アフガニスタン難民に国ごと乗っ取られている?」「誰かナウルを知らないか?」と、いずれも職場や学校でのおもしろ話や茶飲み話のネタを仕入れたいといった軽い感じでしかないのである。

 この事件は日本でも、インターネットのチャット・サイトで話題になった。「ナウルはどうなっているの?」「そんな国が存在していたの?」「大統領が国のお金をみんなもって居なくなっちゃったらしい」「いやいや、アフガン人に占拠されたんだ」と無責任な会話がネット・サイトに踊っていた。情報が溢れる現代という時代、ここでは当然あるはずだと思いこんでいた情報が無いと、それ自体が不安や興味を誘い、憶測やデマやガセネタによる新たな情報が生み出されていく。面白くも、恐ろしい時代である。だから、ナウルについてみなが寄ってたかってお喋りを重ねても、BBCが流したニュースの範囲の話が巡りめぐっていくだけで、誤解や偏見が膨らんで行くことはあっても、それ以上の実態は明らかにはならない。チャット情報とはその程度のものだが、人々がどのように反応しているかを知るのは愉快なことだ。それでは、この話題の元ネタとなった記事の全文、つまり冒頭に紹介したBBCニュースの続きを紹介しておこう。

 いまから3週間前の金曜日、ラジオ・オーストラリアでドゥイヨゴ大統領の声明が 流された。そこで大統領は、「多くの人々が昨年から給料をもらっておらず、21平 方キロの島は、事実上崩壊してしまった。ナウルがこのような危機的状況にあること を知ってほしい」と語っていた。

  ナウルの電話システムは、このような政治的混乱が続く1月8日に機能停止になり、 それ以来、外部との交信は、船上設備である衛星電話を通じてしかできなくなった。 ニュージーランド駐在の外交官も、ナウルの自宅に電話しても通じないと言っている とオーストラリアの通信社は伝えた。

 政治的混乱は複雑で、ドゥイヨゴ大統領と1月にその座を追われた前大統領レナ・ ハリスとの権力争いに端を発している。大統領公邸が先月に焼け落ちたと報じられた が、国政を担当するのが誰であろうと、公邸再建のための予算は捻出できそうにない。

 燐鉱石以外の収入の道として、ナウルを海外投資信託銀行のセンターにしようと試 みたが、マネーロンダリングを行っているとアメリカなどから非難された。というの も、400以上の銀行が、たった一つのメールボックス番号を住所として登録してい たからだ。

 以上が、ついこの間まで豊富な燐鉱石資源によって、一人当たり所得が世界でもっ とも高かった国の悲しい実情である。              (2003/02/21)


ナウル共和国の今
 ナウル事情を伝えるBBCニュースが流れてから1年半、現在のナウル状況はさらに経済が悪化し、完全に破綻状態に陥っている。オーストラリアはこの4月に緊急の資金援助1,700万ドルを供与したが、根本的な問題解決にはほど遠く、7月に乗り込んだ豪財務省の代表団が事実上ナウルを管理することになった。

 戦争状態でも内乱による権力崩壊でもなく、単なる経済破綻によって主権独立国家が他国の管理下に入ってしまうのは、前代未聞の出来事ではないか。少なくとも、私自身は他の事例を知らない。このままでは、借金苦によって本当に国家が消滅してしまうかもしれない。ナウルは、政府に財政資金がないというだけでなく、数億ドルに及ぶ海外債務の返済を迫られ、身動きできない状態になっているからである。

 こんなとき政治はといえば、もちろん混乱を極めている。なにしろ、この10年間を振り返ると、なんと16回もの政権交代が起こっているのだ。昨年初め、ラジオでナウルの窮状を訴えた既述のドゥイヨゴ大統領は、それから2ヶ月後にアメリカで急死し、その後ギオウラ、スコティ、ハリスと3人もの大統領が出現、そして、この6月に再びハリスの不信任案が可決されてスコティが再登場するという混迷ぶりなのである。

 この国を窮地に陥れた原因は、外圧でも民族紛争でも突然襲った天災でもない。これまで近隣国に援助の手を差し伸べるほど潤沢であった政府財政が、燐鉱石資源の枯渇とずさんな資金運用によって経済破綻したからに他ならない。燐鉱石資源は有限だから、20世紀末には枯渇する。これは、68年の独立の時点から誰もが分かっていた。だから、この日を迎えないために、さまざまな備えをしなければならなかったのだが、今となっては既存のリーダーたちでは誰が大統領になったとしても、破綻国家の立て直しは難しいだろう。

 では、ナウル共和国の今後は、どうなるのだろうか?国家を解散して、住民はオーストラリアに移住するか。時代を逆行させて、再び国連の信託統治領になるのか。それとも、オーストラリアの保護国となって、このまま生き延びるのだろうか。第二次大戦後の国際社会では、国民国家の形式を整えた小さな主権独立国家が次々に誕生してきたのだが、ナウル共和国はこうした流れとは逆に、自らの事情で解散する最初の国家になるかもしれない。今となれば、この国の動向は一人ナウルの意志だけでなく、オーストラリアを軸とした先進諸国や国連が如何に関与するかによっても左右されるだろう。このような破綻国家を如何に処理するべきか、これは国際社会に突きつけられた新たな課題だと言っていい。


情報の少ない島国
 経済の破綻国家は、なにもナウルだけとは限らないが、いずれも国家の解散とか消滅といった究極の議論にまで発展しないのが普通である。では、何故にナウルにはそのような懸念が生じるのだろうか。それは、この国が成立し得ていた特殊な事情に起因していると言えそうだ。

 ナウル共和国の特殊ぶりは、太平洋島嶼の12カ国の中でも極端に国情に関する情報や資料が少ないという点にも表れており、この国が金持ちだったという以外にその実態はほとんど知られていない。それは、小さくて地理的に孤立しているという理由だけではない。ナウル自身が外に情報発信することがなかったし、国内の経済事情やその他の統計資料類を公表することもなかったからである。

 他の島嶼諸国が、いずれも自国のアピールに努め、すすんで経済事情などの実態を明かして来たのは、国の経済的窮状を諸外国に訴えて、援助、協力を仰ごうとの思いがあったからである。また、積極的な公表の意志がなかった場合でも、協力事業で入り込んだ国際機関や援助国の調査研究などによって、外部者にもおのずと国内事情が知らされた。ところがナウルは、ついこの間まで世界有数の富裕国家だったから、自国を諸外国にアピールする必要はなかったし、援助機関が入り込む余地も無かったのである。鎖国をしていたわけではないが、観光客を呼び込むための宣伝もしなかった。なぜなら、異文化人である観光客などが来れば、うっとうしいだけでなんの得にもならないし、興味本位で取材するマスコミなどにおもしろおかしく国情を紹介されるのは、「百害あって一利なし」と思ったからだろう。それでナウルは、いわば情報鎖国的な存在となっていたのである。様々な情報が錯綜してはいたものの、本当のところがよく分からなかった原因は、ここにある。

 では、ナウルとはどんな国家だったのか、その実態を最近の現地見聞記を織り込みながら報告してみたい。
 

ナウルに行かなくては
 私が、ナウルの現状を自分で確かめたいと思ったのは、やはりBBCニュースを目にしたときである。そして2003年の夏、ナウル行きを決めた。電話が通じなくとも、フィジーのナンディーからキリバスを経由してナウルへ、そこからブリスベンに抜けるルートで、ナウル航空の定期便が運行していることが分かったからだ。

 問題は入国ビザの取得、これがないと飛行機に乗せてくれない。そこで、フィジーのナウル領事館に電話をすると「現在のところ領事館ではビザの発給はしていないので、本国と連絡をとるように」との答えだった。そんなこと言ったって、KDDIのオペレーターは未だに「ナウルへの電話回線は通じておりません」と言うではないか。それでは、文書でビザ請求するしかないのだろうか? でも、これまでの経験則からして、文書通信ではいつ決着がつくのか予測できない。さあ、どうしよう。

 ナウル問題がネット上で話題になり始めたころから、新聞、テレビなどのマスコミ関係者から私の研究所へ電話がよくかかるようになっていた。「現状を知りたい」「現地取材する方法はないのか?」といった問い合わせが大半だったが、彼らもナウル行きの手がかりを求めていたのだ。この1〜2年の政府は、マスコミはもちろん、一般観光客にも入国を認めていなかったからである。

 そんなとき、研究所の同僚小川和美氏が「ホットラインの電話番号が分かった」と言ってきた。公表されていないが、外界と政府を繋ぐ電話回線が一本だけ機能しているらしい。彼は、駐フィジー日本大使館に勤務していた時代に築き上げた人脈をたどって、この電話番号を見つけ出したのである。小川氏にも私にも若干の知人がいて、いずれも政府で働いているはずだった。そこで勇んで電話をしてみると、なんと拍子抜けするほど簡単に連絡がとれてしまったのである。

 電話の相手は、マーリーン・モーゼス内閣官房長。マーリーンは、小川氏がフィジーに駐在していたときからの知り合いだったから、その後の話もスムーズに進み、小川氏と私は政府の招きでナウルを訪問できることになった。彼女は、私を知らないと言ったが、実は私には大変懐かしい名前だ。今から30年ほど前、赤坂にナウル領事館が置かれていたのだが、その時のテオドール・モーゼス領事の長女がマーリーンだった。私は領事のお宅で、当時6〜7歳だった彼女と何度も遊んだ記憶がある。お父さんのモーゼス氏は今も健在で、70歳ながら燐鉱石事業復興公社の要職にあるというから、久しぶりに再会できるのも楽しみだった。


日本とナウルの関係
 30年も前にナウルと関わりをもったのは、私の所属する太平洋諸島地域研究所(旧称日本ミクロネシア協会)の中に日本ナウル協会の事務局が置かれていたからだったが、そもそも、この協会の設立経緯はこうである。

 日本は、1942年から45年まで、豪、NZ、英の三国施政下にあった委任統治領ナウルを占領した。当時の島人口は2千人弱だったが、日本軍はそのうちの千数百人を疎開と称してトラック諸島に強制移住させ、海軍基地や関係農場の労働者に徴用したとする記録がある。このとき、日本人との様々な交流もあったようだが、飢餓や病気、戦火に巻き込まれたりして、戦後無事に帰島できたのは3分の2。この中にハンマー・デロバートという酋長家系の青年リーダがいた。そして、その青年デロバートが、独立したナウル共和国の初代大統領となった。

 ナウルの大統領が、トラック諸島で親交のあった南洋拓殖会社の旧社員たちを捜しているという話が日本側に伝わったのは、独立後間もない頃であった。その尋ね人の一人で、日本ミクロネシア協会の設立時に常務理事を務めた石川二郎氏は「大統領が私たちを捜していると聞いたときは、かなりビビりましたよ。戦後20数年たってはいるが、独立を機に何か戦争当時の責任を追及されるんじゃないかってね」と、そのときの心情を素直に語っていた。

 南洋拓殖株式会社、通称「南拓」とは、朝鮮半島の東洋拓殖会社と同様に、植民地の主として農業分野の開発を目的に設立された国策会社である。トラック諸島に強制移住させられたナウル人は、基地労働や農場で軍に供給する蔬菜類を作る仕事に従事させられていた。石川氏らは、恐る恐る東京で大統領に面会したが、顔を見るとすぐにその懸念は吹き飛んだ。デロバート氏は全身に懐かしさを漂わせ、彼らとの久しい再会を喜んだからである。そして、こう言った。「ナウルは独立し、私が大統領になりました。これからはどこの国とも自由に親交を結べます。私は貴方がたを通じて日本との友好関係を築きたい。昔のように仲良くやりましょう」。この言葉に感激した元南拓社員たちは、すぐさまかつての仲間たちに呼びかけて、大統領の歓迎会を開催。それから間もない1970年に、南洋拓殖のOBたちで組織する「南拓会」を母体にして、日本ナウル協会が設立されたのである。

 それ以来、デロバート大統領は毎年のように日本を訪問し、協会を通じて様々な日本の民間との交流がすすめられた。また、ナウル航空の定期便が鹿児島空港に飛来し、航空会社のオフィスが東京霞ヶ関に開設された。燐鉱石は日本にも輸出され、日本からも新造した貨物船や自動車が輸出されるなど、経済関係も順調に推移した。今にして思えば、独立間もないこの時期のナウルは、潤沢な政府財政に支えられ、輝かしい未来に希望を託して歩み始めた絶頂期だったと言えるだろう。赤坂に領事館が設置されていたのも、このころである。

 しかし、80年代に入ると、日本・ナウル関係には徐々に陰りが見え始める。領事館は閉鎖、ナウル航空も客席がほとんど埋まらない鹿児島便から撤退した。この時期、まだ燐鉱石収入は潤沢だったが、そろそろ資源の先行きが心配されはじめ、非効率、非採算の事業を見直す機運が起こってきたからだ。それでも、デロバード大統領が健在なうちは、協会との関係は密接だったのだが、1989年に彼が大統領職を退き、さらに92年に69歳で亡くなってからは、徐々に連絡が途絶え始め、やがてほとんど交流がなくなってしまった。デロバートのいない90年代は、資源枯渇がいよいよ秒読み段階に入り、急激に財政が悪化していく時期なのである。

 ナウルの経済的勢いが衰えるのに歩調を合わせるかのごとく、日本ナウル協会を支えてきた南拓会メンバーの高齢化が進み、その数も少なくなっていった。しかし、驚くべきことに、協会設立時に、執行役員として活躍した二代目会長石川二郎氏や三代目で現役会長の小深田貞雄氏(研究所現理事長)は、ともに90歳を超えながら未だナウルに衰えることのない情熱を抱き続けていた。私がこの時期にナウル行きを思い立った理由の一つは、交流が途絶えて久しいナウルの今を、明治生まれの二人が健在のうちに報告しておかねばならないと考えたからであった。


ナウルへ入国
 2003年8月26日、私は小川氏と二人でフィジーのナンディーからナウルに向かった。ナウル航空は2時間でキリバスに到着、そこで1時間ほど費やしてからまた2時間ばかり飛んでナウルに着いた。飛行機はその後、ブリスベン、シドニーへと飛ぶが、ここで降りた乗客は十数人、私たちを除けば島の在住者と政府関係者といった風の人たちだ。入国審査の際、ビザのない私たちがパスポートを預けてそのまま外に出ると、外務省の女性職員二人が出迎えに来てくれていた。

 彼女らに案内されたのは、街なかにあるO・N・アイオホテル。空港から舗装道路を車で2〜3分走ったメインストリート沿いにある4階建て20室のビジネス・ホテルだった。改装・増築中で、食堂は閉鎖されていたが、これで寝ぐらは確保できたからまずは安心。それでも、「午前11時から夕方5時まで、それ以外でも不定期で停電があり、そのときは水が出ないので気をつけるように」とフロントのキリバス人のおばちゃんが愛想よく笑った。島の反対側の海岸に、国営のメネンホテルがあり、こちらの方はリゾートホテルとして通用するだけの十分に立派な施設だったが、119室のすべてがオーストラリア軍と国連関係者に占拠?されていて、一般の旅行者は宿泊できない。というのは、このホテルの各客室が、アフガニスタン難民を管理するオーストラリア軍人の宿舎ならびに難民受け入れ事務局として使われていたからである。

 私たちはホテルの部屋に荷物を置くと、そのまま外務省に向かった。来島の挨拶と、これから数日のスケジュールを確認しておくためである。

 ところで、ナウル人が難民になるかもしれないと心配しているというのに、この国にアフガニスタン難民の受け入れ事務局が置かれているのはなぜなのか? ナウルにはその時点で、島の三カ所に分散して設営されたプレハブのキャンプ地に700人の難民が収容されていたのである。2001年8月、オーストラリア政府は近海を漂流していたアフガニスタン難民の受け入れを拒否し、すべての管理責任と謝礼金3,000万豪ドルを条件に、02年5月まで難民をナウルに居住させるよう要請した。ナウル政府はこの頼みをきき入れて、難民1,153人の入国を許可したのだが、私がナウルを訪問したときは、受け入れ期限がとっくに過ぎていたのに、まだ半分以上の難民が残留していた。これについて外務省は、「オーストラリアは約束を守らない」とさかんに憤慨していたが、その後のナウル国内での見聞が広がるにつれ、難民受け入れ事業は大いにナウル人の経済的助けになっていることがわかった。

 
危機感はどこに?
 外務省は飛行場の滑走路を隔てた空港ビルの真向かい、こじんまりした木造平屋建て長屋の一室にあった。その建物に隣接して、議会、裁判所、中央警察署等々、ほとんどの政府機関がここ一カ所に集中している。だから、この国の要人たちを訪ね歩くという仕事も、この辺りをうろつくだけで事が足りるだろう。

 私たちは、外務省の事務次官代行キム・ハバートさんと行動スケジュールの打ち合わせを済ませて、とりあえずホテルに戻った。今夜の寝床と明日からの日程が決まってホッとしたところだが、一方でいささか拍子抜けした感もある。なぜって私は、消滅を疑われる国、存亡の危機に直面する国に来たはずだったから、何時にない緊張感を伴って空港に降り立ったのである。 しかし、私が見たホテル近辺の街並や政府庁舎内の様子は、全くいつもと変わることのない、けだるく長閑な南の島そのものの雰囲気だったからだ。いったい、この国のどこが危機なのか? 停電でホテルのシャワーが使えない!そんな程度で私は驚かない。それを国家的危機というなら、南の島はどこもかしこも危機だらけである。私たちはホテルで車を借りて、この国をひと巡りすることにした。

 ナウルはそら豆状の形をした島で、面積は21平方キロ。これだけが国土のすべてである。20キロ弱の周回道路があって、おおかたの人々はこの道路沿いに住んでいる。だが、とりわけ人目を引く豪邸が並んでいたり、高層ビルが建っているわけではなかった。ニッパ椰子の葉で編んだ伝統的な家屋こそ見あたらないが、決して豪華とはいえない熱帯の緑濃い木々に囲まれて建つブロックやプレハブの低層住宅、さらには海岸沿いの椰子の木々といった眺めは、他の島々でも普通に見られる風景である。この島に初めて足を踏み入れたときの印象では、ここが世界有数の富裕国だという実感が、私にはどうしても沸かなかった。それまでに訪ねた数々の南洋の島々と、それほどの違いがなかったからである。強いて異なる風景をあげれば、どこまで歩いても穴ぼこのない舗装道路、珊瑚礁に砕けた白波の白線が引かれていない沖合のブルーの海、それぐらいだろう。

 海岸沿いを時速40〜50キロで走ると、30分もしないうちにもとに戻ってくる。車から見えるものは、以前となにも変わりない。一周する間に「Chinese Restaurant」と書かれた看板が10軒以上あったのも、相変わらずだった。レストランといっても、折りたたみ椅子数席だけのいわば田舎の食堂といった店がほとんどで、数十席を有する本格的な中華料理店は、飛行場に隣接して一軒、その他に二軒あるだけ。それにしても、燐鉱石事業がなくなって外国人労働者が減り、仕事もないはずなのに、沢山の中国人は何をしているのか不思議である。

 このように初日の見聞では、ことさら島内の雰囲気に以前との違いを感じとれなかったが、「あれっ」と思うことも二つあった。一つは、周回道路で見つけた4軒のガソリンスタンドすべてが閉鎖していたこと。半月以上も前から、島にはガソリンがないのだという。それにしては、車が頻繁に行き交っているのはどういうことか。二つ目は、政府直営のコープの棚に、ほとんど品物が並んでなかったことだ。夕方、100坪近くもあると思われる冷房の効いた広い店舗には品物も人影もなく、レジでは3人の若い女性がおしゃべりに嵩じていた。これはまずい、ミネラルウォーターも買えないではないかと思ったが、すぐに気を取り戻した。私たちは危機国家の視察に来たのだから、この程度はしかたない。ところが、他にもう一軒ある民間のスーパーマーケットに行ったら、食料品から雑貨、家具まで何でも豊富に揃っていた。金さえ出せばまだいける状態なのだろうか、ただし、ガソリン以外なら。


ナウル要人たちの素顔
 翌朝、私たちの日程は大統領代理のデログ・ギオウラ副大統領(元大統領)の表敬訪問から始まった。部屋には大蔵大臣マーカス・スティーブ氏も同席しており、私たちを暖かく迎えてくれた。ハリス大統領が、持病の糖尿病治療を兼ねてオーストラリアに出張中だったので、この二人はそれに次ぐ大物と言っていいだろう。その彼らが、ナウルの危機的状況や今後の展望などについて、私たちの質問に答えてくれた。その様子は終始にこやかで友好的。そして、「とにかく燐鉱石事業を中心にすべてが成り立ってきたのだから、その現場がどうなっているかをつぶさに見ることが、この国の理解に繋がる」と言って、その場で燐鉱石採掘場とその施設を見学するように手配してくれたのである。

 私たちはその晩、この国の要人たち数人を食事に招待したいと思った。両大物はこの招待に快く応じてくれ、「国会議長や官房長にも声をかけておくから、その場で大方の有力者には会えますよ」と言った。午後7時、会場の中華レストランに集まったのは、副大統領、大蔵大臣、国会議長夫妻、官房長、外務事務次官代理、その他2名と私たちの計10人、豪華な顔ぶれである。肉、魚、野菜、スープとおなじみの中華料理は、味、量ともに十分だったが、広い店内でテーブルを囲んでいる客は、私たちだけ。これも、この国の今の経済事情を反映しているのだろう。以前であれば、これだけの政府要人たちが集まる会食であれば、私たちが客人になって当然だったはずだが、それほど政府財政は緊迫しているのだ。

 ナウル要人たちとの一連の会談で、私には幾つか意外なことがあった。その一つは、日本ナウル協会の名が、思いのほか知られていることだった。この10年、協会としての交流はほとんどなかったが、デロバート大統領時代の交流実績が人々の記憶にしっかりと残っていた。私たちが、日本からの重要人物として歓迎されたのもそのためで、副大統領から「明朝に議会を招集するから、国会で演説してください」と言われて、「いやいや、今回は準備をしていないので、次回に」と、私が恐縮しながら断る一幕もあった。

 二つ目は、この国の危機的状況を部外者の私たちに案外率直に語ってくれたこと。数字や具体的データを示してくれたわけではなかったが、経済的困窮、それに関連して政治が安定しない実情を彼ら自身の口から聞けた。そして私は、彼らとの会話の中で、他の島嶼諸国要人らとの明らかな違いを感じた。それは、先進国からの援助が欲しいとか協力してもらいたいといった具体的な要求に繋がる話が一切出なかったことだ。経済危機に直面しても、依存心を前提にしないというナウル人のプライドなのか、援助要請の方法を知らないのか、おそらくそのどちらでもあるのだろう。

 そして私が何より印象深かったのは、面談したどの方々にも深刻な暗い表情がなかったことだ。いろいろと実情を視察、調査するうちに、次第にこの国の深刻な事実が明らかになって行ったものの、入国した当初、これが危機的国家なのかという疑問を私に抱かせたのは、人々から一向に暗さを感じなかったからだ。実際にはこの半年間、公務員や燐鉱労働者には給与が出ておらず、労働者は政府発給の食料引き替え券で糊口を凌いでいた。役所の中では、いつも何人かが休んで海に魚採りに出かけているとか、この数ヶ月間は肉を食べていないと言う人に何度も出会った。さらには、島には水道の他に井戸もあるが、電動吸い上げ式なので、停電だと水がなくなる事態も起きていた。要するに、政府に金がないので、給与の支払いはもちろん、電気、水道、通信などの基礎的なライフラインさえも十分に機能していなかったのである。島の半分では、比較的長時間にわたり電気が使えたが、これは難民キャンプに電力を送り込むために、管理者のオーストラリアが重油を供給して発電所を動かしているからだった。キャンプやその関係者が地元消費する若干の経済行為が、地元の確実な収入に結びついてもいた。迷惑であったはずの難民の存在は、むしろナウル人の窮状を若干なりとも助ける存在になっていたのである。

 これほどの深刻さの中で、暴動も起こさず、暗い表情も見せないナウル人の心情はどうなっているのか、これについては私には今でも十分に理解できていない。


どれほど裕福だったのか?
 それでは、ナウルがこれまでどの程度の金持ちだったかを見よう。1981年度を例にとると、ナウルは170万トンの燐鉱石を輸出し、これにより日本円に換算して推定で200億円以上の収入を得ている。この時点の国内総人口は、全体の4割を占める外国人労働者を含めて8,400人だったので、この人口で単純に割り算すると、一人当たりの稼ぎ分は2万ドルを超える。これにその他の商業活動の集積額や国民人口4,990人という諸要素を組み込んで正確に算出すれば、ナウル国民の一人当たりGDPはさらに大きな数字になるはずだ。国連統計によれば、1981年の日本の一人当たりGDPは9,944ドル,アメリカが13,551ドル。これと比較すれば、この国の金持ち度が如何ほどのものであったかが容易に理解されるはずである。

 年ごとに見ると輸出量や原料価格の変動があって収入は一定ではなかったが、1973年からの10年間の年平均輸出量を計算すると188万トン、ほぼこの水準が独立した1968年から80年代の終わりまで続いた。これをざっと計算すれば、20数年間で5,000億円以上の収入になる。国民人口5,000人前後の国にしてみれば、なんとも大きな金額ではないか。

 それゆえ、70,80年代の政府の行政支出は100億円にも達していた。これは、国民の他に労働者としての外国人が4割も国内に居住しているとはいえ、相当に贅沢な国家予算だと言っていい。こんな具合だから、ナウルには所得税も消費税もない上に、教育費も医療費も無料である。政府病院で手に負えずオーストラリアの病院に運び込む場合は、患者がナウル国民であればその経費はすべて政府が支払う。これだけでも有り難い話だが、さらに結婚したら政府が2LDKの一個建て住宅まで建ててくれたのだから、国民にとってはまさに天国に一番近い島であった。

 とはいえ、見た目のナウル人の暮らしは特別に豪勢でもなかったし、島の繁華街にネオンが瞬いているわけではない。国内にある大企業といえば、ナウル燐鉱石会社、ナウル航空、ナウル海運など、政府系の数社だけしかないのだから、高層のオフィスビルが林立するわけはないし、観光地を目指してもいないのでリゾートホテル群がないのも当然だった。島の東側の海辺に建つ国営のメネンホテルは立派な施設だが、これが唯一の本格的ホテルで、そのほか街に民間のビジネスホテルが一軒だけ。それでも島嶼地域間の国際会議でもない限り、これだけで十分なのである。

 ナウルの豊かさを支えているのが国内のビジネス活動ではなく、人々の暮らしぶりも、それほど贅沢三昧、やり放題といったふうではないのだから、ナウル島の雰囲気が他の島嶼と類似していても少しも不思議ではない。では、燐鉱石が生み出した莫大な利益は、どこへ消えてしまうのか。

 表1 最盛期の燐鉱石輸出量
 
 年 度 原鉱石(トン) 粉末加工(トン)    備           考
  73/74  2,394,000   輸出先:豪・NZ(68%),日本(8%),韓国(3%),その他
  75/76  1,951,324    
  77/78  1,486,956    8,500  
  78/79  2,200,000   30,000 79年の残存資源量 3,880
  80/81  1,534,619   55,435 81年6月505haで2,400万トン残存。あと10年強
  81/82  1,709,435   26,401  
  
    出所:Pacific Islands Year Book 各版より作成


 表2  政府財政収支の推移
 
 年度   収  入   支   出   差    額
 75/76   34,870,000   25,149,800    9,720,200
 78/79   35,015,350   40,611,850  △ 5,596,500
 82/83   91,307,025   87,162,164    4,144,861
 85/86   77,298,700   76,205,700    1,093,000
 01/02*   23,400,000   64,800,000  △ 41,400,000
   
  出所:Pacific Islands Year Book 各版、USA Fact Paperより作成
   *この年の政府収入源は、燐鉱石輸出、入漁料、援助等。これ以外の年の収入額は、
    政府行政費で、燐鉱石輸出による国家全体の収入は、政府収入額のほぼ倍額。


燐鉱石収入の使い道
 ナウルでは、燐鉱石収入の半分を国家財政に組み込み、残りの半分を土地を管理する地方政府評議会(酋長会議)に入れて、ここから鉱石採掘地域の土地所有者たちにロイヤリティーを支払ったり、資源枯渇後に備えた信託基金への繰り入れや海外投資資金として拠出していた。

 近隣島嶼国が羨むほど潤沢な行政経費を使っていたナウルだが、そもそも近代国家の形を維持するには莫大な経費が必要である。いくら小さくとも、国際社会に認知されるように国家の体裁を整えるには、一般行政、議会、司法、治安、外交、教育、医療、社会サービス、郵便通信等々の一通りの機能を果たすべく諸機関を備えなくてはならないからだ。例えば、軍隊がないので直接的な国防費の拠出はないが、80年代には、近隣オセアニア諸国やイギリス、アメリカなど16地域に総領事館を設置していたし、70年代は東京の赤坂にも領事館があった。99年に国連に加盟してからは、ニューヨークにも事務所を開設した。これらの在外使節がこの国に本当に必要かどうかの議論は別にして、これらは独立国家ゆえに拠出しなければならない費用なのである。

 昔は、島の出来事は酋長たちが集まって話し合い、悪い奴が出てくれば皆で制裁や罰の与え方を決めていた。これで何も支障がなかったし、特別に金もかからなかった。だが、近代国家仕様の議会や司法制度ができて、議員歳費や裁判費用にも膨大な出費が伴うようになった。つまり、燐鉱石が生み出した莫大な現金は、必ずしも国民や政府が贅沢三昧に浪費してきたわけではなく、まず第一には、独立主権国家として存在させていくための必要経費として、そして第二には、自給生産を捨てたために必要となった輸入材の購入のために、消費してしまったということだ。独立国家であり続けるには、維持経費がかかるのである。

 そして残りの半分は、営利事業への投資と信託基金への積み立てに当てられた。これで余剰資金を膨らませ、必ず到来する資源枯渇の日に備えるためである。政府は、ナウル航空、ナウル海運、ナウル保険会社、ナウル漁業、メネンホテルなどの国営会社を次々に設立し、さらにはメルボルンの超高層ナウルビル、サイパンのナウルハウス、グアムのパシフィック・スターホテル等々、近隣諸国での不動産投資を積極的に展開していった。日本でも不動産投資こそなかったが、株式の運用は盛んに行われていた時期があり、これらの海外資産の総額は一時期数億ドルにまで膨らんだと言われている。この他にも、オーストラリアの銀行に燐鉱石基金を積み立てていった。
 

投資事業に失敗
 このように、多少贅沢に行政経費を使っても、さらに余った資金による蓄財行為によって、資源なきあとも万全のはずであった。たかだか5,000人程度の人口を養うのに、数億ドルの資産があれば、十分にいけると誰もが思ったであろう。なのに、今日のような状況に陥ってしまったのは、どうしてなのか。それは言うまでもなく、ナウル政府が独立以来行ってきた国営会社の経営や海外投資事業がことごとく失敗し、赤字を累積させてきたからだ。

 乗客のいない航空機や積み荷のない貨物船を運行しても、利益は上がらない。建物だけ建ててもホテル経営は出来ない。経済事情や産業動向に精通していなければ株式で儲けるのは難しい。要するに、ビジネス経験もハングリー精神もない政治家や役人が営利会社を経営するのはどだい無理な話であって、その意味ではナウルの指導者たちの能力欠如が原因だったのだが、私には、単にナウル人の無能力を笑うことはできない。我が日本国でもこのところ、国がらみで建設、運営する施設や事業が大赤字を抱えて立ち行かなくなり、誰も責任をとらないというケースが次々に発覚しているではないか。そう考えると、個人的能力の問題というより、国家という仕組みの問題として捉えなければならないのである。

 ともかくナウルは、こうして国土を削って得た金をすべて使い切り、そして借金生活が始まったのである。いくら小さな国家であっても、「車は急に止まれなかった」のだろう。90年代に入り急激に燐鉱石収入が落ちると、資産運用の赤字や政府財政の不足を埋めるために海外資産を担保に借金をはじめるが、これでさらなる窮地に陥っていった。返済見通しがないままの場当たり的借入だったこと、借入先が国際機関や外国政府ではなく海外の民間金融機関等だったこと、この二つが災いしてナウルは次々に海外不動産を失ったばかりか、膨張した不良債権の返済に迫られるという状況に追い込まれたのである。

 こうした有り様は、国家といえども、ずさんな事業に失敗して借金に苦しむ個人事業主の姿のようにも見える。民間経済が存在しないこの国では、政府の機能停止がすべての国民を巻き込んだ国家経済の破綻に直接結びつくだけに、これほど深刻度が大きいのである。
 これまでナウルは、国家財政に関する情報を公表してこなかったので、借金の実額については不明だが、ここまでくると誰が大統領になっても自助努力で問題を解決できる段階は超えてしまったように思える。既に、オーストラリアが救済目的でナウル政府を管理下に置いたとのニュースが届いているが、今後のナウルの動向は、オーストラリアの意向が大きく反映されるだろう。


宝の山が悲劇を生んだ
 それではここで、他の島嶼にはあまり見られない、ナウルならではの特徴について見よう。

 本来の南洋人であれば、現金がない、電気が来ないといったことで落ち込んだりはしない。腹がへれば裏庭にバナナを採りに行けばいいし、畑ではタロもとれる。目の前の海にひと潜りすれば、椰子の木の葉で編んだ籠はすぐに魚介類でいっぱいになるからだ。まあ、近頃では島々も都市化が進んで必ずしもこんな具合には行かないが、島嶼経済に自給的な非貨幣部門が占める割合は今でも相当に大きいという事実は重要である。自給力の高い島では、現金や電気のないことが、人々の生存の危機には即結びつかないからである。

 ところがナウルの場合は、消費財のほぼ100%が輸入頼りで、食料の自給部門がないために、金がなくなればすぐさま生存さえ危ぶまれる事態に陥る。これが他の国とは異なる金持ち国家ナウルの特殊性だと言っていい。もともとナウル共和国の有する条件は、南の島嶼国というイメージとは少しばかり違っていた。太平洋島嶼国の中で唯一、島の周りに珊瑚礁の形成が見られない単島国家だからである。

 周囲に島がなく、まさに太平洋の孤島。南洋では珊瑚礁のない孤島とは、単に島が一つであるという以上の重大な意味をもつ。珊瑚礁の形成がなければラグーン(礁湖)もないわけだから、簡単な漁具やカヌーを使ってリーフフィッシュの漁獲や貝類、甲殻類の採取ができにくいし、直接の荒波のために船着き場も作りにくい。南の島といえば、この珊瑚礁の海からもたらされる恵みによって原初的な豊かさが確保されているのが大方だが、それがない分だけ、ナウルは不利な生存条件下にある。

 ナウルの次に小さい国はツヴァルだが、ここは典型的な極小諸島、環礁国家なので、ナウルとはだいぶ様子が違う。面積は26平方キロとナウルよりわずかに広いといっても、この数字は国土を構成する9つの島の合計なので、一つ一つは珊瑚礁を伴った4〜5平方キロ以下の小島でしかない。一つの国家を形成するという観点からすれば、分散する国土は頭痛のタネになっているのだが、海に依存する島民の生存条件に限って言えば、ナウルよりツヴァルの方が暮らしやすかったのではないかと私は思う。

 しかし天は、ナウルにさらなる試練を与えた。禁断の木の実ならぬ、島中を覆う燐鉱石の存在がそれだ。これまで生活の場としては、さほどの条件に恵まれなかった地形が、莫大な富を生み出す資源の宝庫に変身したからだ。現代という時代が、この絶海の孤島を一躍宝の島に変え、そしてナウル人は裕福になった。しかしそれは、ナウル人の暮らし方の伝統をすべて捨て去り、自らの身を削り落とすことと引き替えに成り立つ富だったのである。島内の農耕地はすべて燐鉱採掘場に変わって、もはや自給的農地への逆戻りは不可能となり、伝統漁法がスポーツフィッシングに代わって魚採りには高速ボートやガソリンが不可欠になった。すべての生産行為を止め、宝を消費するだけの暮らしに変容したのである。これらが今日的悲劇を生み出したすべての根元だとする見方があるが、おそらくそれは、かなりの部分で正しいだろう。なぜなら、彼らが宝をなくしてしまったとき、同時に、生きるための土地も生き抜く知恵が詰まっていた伝統も失っていたからである。

 ナウル燐鉱石公社の人事部長レシ・オルソン氏は「私たちナウル人は今、金がなければ物が買えない、生産しなければ金が手に入らないといった当然の事実を、生まれて初めて体験実習しているのです」と先生のような口調で言ったが、私の脳裏には妙にこの言葉がしみこんでいる。確かにナウル人は、独立して36年、その前の信託統治領からだと57年もの間、ほとんど直接の生産行為に携わってこなかった。それだけに突然の状況変化は、ことのほか深刻であるはずだが、人々が暴動も起こさずにじっと耐えているのはなぜなのだろう。一つには、個人レベルではまだ余裕がある。二つには、国内に極端な富の偏在がないから。これが私の推測するところだ。

 この国には、搾取する者とされる者がいたわけではなく、国民はあまねく宝の分配に与っていた。要するに、みんなで宝を使い果たしてしまったのだから、誰にも文句の付けようがないではないか。ただし、使い方を決めてきた国家指導者たちの能力不足は責められるべきで、だから政争が絶えず頻繁に大統領が入れ替わっているのだろう。かといって、大統領宅や大蔵省を襲ったところで、金庫の中はやっぱり空っぽだから、暴れたりしないで今を生き抜いていくしか道はない。昨年初めに起きた大統領公邸の火災は放火の疑いが強いのだが(現在、公邸跡地にはプレハブ施設が建てられ、アフガニスタン難民のキャンプ地になっている)、これとて住民による政府への組織的な抗議行動や暴動などの結果ではなかった。

 やり場のない不満や将来への不安をストレートな感情として表さないナウル人の心境は、いかばかりなものか。そんな中で、政府の要職を経験した何人かが、不正蓄財して海外の銀行にしこたま貯め込んでいるという噂が少なからず聞こえてくる。真偽のほどは私には不明だが、十分にあり得る話である。
 
生産に関わらない国民
 もう少し、具体的に国の経済構造に踏み入ろう。国営会社を除いた純粋の民間経済活動としては、一般人の消費を支えている政府系コープと民間のスーパーマケットが一軒づつ、零細の雑貨商店や中華食堂が目立っているが、その他にホテル一軒と十数件の個人商店を加えれば、これでこの国の国民経済活動の全貌をほぼ見渡したことになる。

 この島には自生する椰子の木や芋などが若干あるだけで、農業をする土地は残っていないし、国民にその気もない。だから、ここにはサブシステンス部門が全くなく、食料はすべて輸入に依存する完全な貨幣経済社会であり、この点が近隣他国の島とは決定的に違っている。

 さらに、このような限られた経済活動の中でも、現業部門はほとんど外国人によって支えられてきた。零細商店を営むのは、おおむね中国人や近隣から来た太平洋人、基幹産業である燐鉱事業も主要な労働者はすべて外国人だった。80年代の最盛期にいた約3千人の採掘労働者の内訳は、千数百人がキリバス人、千人弱がツヴァル人、2〜3百人が中国人。その他にもオーストラリア人やフィリピン人の技術者が従事していた。ナウル人は公務員か国営企業の管理職、事務職に就いていたが、その公務員も運輸・通信、司法等々の専門性の高い分野にはオーストラリア人、フィリピン人、インド人などを登庸していたので、公務員中に外国人が占める割合は30%(1986)に上った。

 要するに大半のナウル人は生まれてこの方、自ら生産に関わることなく、燐鉱石資源のロイヤリティーで暮らしてきたのである。いってみれば、居ながらにして金が入り込
む貴族のような暮らしであって、国民が政府収入に貢献し、政府から恩恵を受けるという相互の関係がなりたっていないのだ。

 このような仕組みと経済の構造は、独立を果たした他の島嶼国と本質的に重なる部分が多いと私は考えている。ナウルとその他諸国が違うのは、ナウルが政府維持のために必要な現金を燐鉱石収入で賄ってきたのに対し、他の諸国は旧宗主国やその他先進国からの援助などで、どうにか成り立たせてきたという点である。

 世界有数の金持ち国家ナウルと貧しい南洋の島嶼国とが、類似の経済構造を有するとは、どういうことか? それは、ミクロネシア連邦やマーシャル諸島の経済が、ナウル同様に公的経済で成り立っているという意味である。

表3 国内在住人口

   国籍 ナウル国民  その他   合  計
 1975  3,865  3,235  7,100
   79  4,600  3,100  7,700
   82  4,990  3,410  8,400
   87  4,964  3,078  8,042
 2003  7,291  5,279 1,2570人

  出所:Pacific Islands Year Book, USA Fact Paperから作成


表4  国籍別在住人口
 
 年 ナウル人 太平洋人 欧豪人 中国人 フィリピン  合 計
 1979  4,600  1,900   450   650   200  7,700 人
 2003  7,291  3,268 *  1,005  1,006  *に含む 12,570


   出所:Pacific Islands Year Book, USA Fact Paperから作成


表5 ナウル燐鉱石公社(NPC)の国籍別雇用者人数

  ナウル人 太平洋人 欧 豪 人 中 国 人 フィリピン人  合 計
 1979   99   831   92    226   14  1,262 人
   
   出所:Pacific Islands Year Book


島嶼経済は公的支出から
 公的経済とは、政府事業や公務員の給与などの形で政府資金が一方的に民へと流れ、それがその国経済の根幹となる構造を指している。ポイントは、政府の収入源が燐鉱石か援助かの違いがあるにせよ、どちらも国民の経済活動によって生まれ出た収入ではないために、政府と国民との経済関係が相互に連動していないことである。これは植民地時代の経済構造そのままだと言っていい。

 太平洋の場合、住民は例えばタロやパンの実といったサブシステンス経済の中で暮らしていたので、宗主国はこれを搾取しても植民地政府を維持できなかった。そこで必要経費の大半は本国から調達したのであって、住民が近代政府を維持するために経済活動をもって貢献できる仕組みにはなっていない。

 それはそうでしょう、昔から伝統社会システムの下に社会秩序の維持や生産物の再配分が行われており、住民にとって近代政府など必要ではなかったのだから。それでもこの経済構造のままに、植民地政府を居抜きの形で引き継ぎ、形ばかりを近代国家の体裁に整えたのが島嶼の独立だ。それゆえに独立とは、政府の運営経費を拠出していた源を断つことを意味するのであって、財政基盤を失った新政府が運営資金不足に悩まされるのはいわば当然の帰結なのである。だがよく考えてみれば、いくら政府が貧しくとも、サブシステンスの中で暮らす国民には影響がない。この状態を私は「豊かな国民、貧しい政府」と表現してきた。島嶼国の経済自立を考える場合は、ここがポイントなのである。

 ところが、旧宗主国や近隣の先進国は、自ら指導して作らせた政府の形を維持させるために、人道支援と称して財政援助、開発援助を推し進め、一方では、国民の生産システムがサブシステンスから貨幣経済、市場経済へと移行するように産業化社会への転換を迫ってきたのだ。これは、国民の経済活動を政府の維持経費を稼ぎ出す仕組みへと変えていくための誘導であり、「島嶼国の経済自立」とは「政府財政を援助なしに賄うこと」を意味している。先進国はこれを近代化だといい、島嶼民は必要でもなかった政府を維持するために、生活方式の転換を迫られてきた。なんか変でしょう?だから私は、この考えを極小島嶼国に当てはめて一途に推し進めるのは危険である、と言い続けてきたのである。公的資金を投入し、産業の育成を図り続ければ、やがて島にも産業が根付き、その税収で政府も維持できるという考えは、冷房の効いた研究室の机の上で描く幻想にすぎないからだ。

 首尾よく島が産業化して国民が現金を稼ぎ出せるようになれば、それも良い。しかし、公的資金が流れ続ける間に、島で生き抜く生活技法としての伝統が失われ、自然環境が悪化したあとで、やっぱり産業化は無理だから援助は打ち切りだと言われたら、島嶼民はどう生きていけば良いのか?現実に、独立後20〜30年たっても、投資効果が現れない事例が幾らも出現しているではないか。その場合、先進国や先進国人で組織する国際機関は、誤った開発理論を押しつけた責任をとって、永久に援助し続けなければならないと私は思うが、そうならないように、島ならではの、島に適応した暮らしの伝統を残していかなければならない。極小島嶼の伝統は脆弱なだけに、ことさらこの点に気を配ることが大切なのである。

 ナウルと他の極小島嶼国とでは、自国資源と外国援助という違いがあるが、国民が稼ぎ出した資金による国家運営ではないという点で、幾つもの構造上の問題を共有している。それゆえ、ナウル共和国の建国から今日までの歴史は、国造りを進めている島嶼諸国にとって限りない教訓を与えているのである。


予測が難しい小国家のゆくえ
 これほど悲観的な経済状況の中で、ナウルの指導者たちは如何なる将来展望を描いているのか。ナウル滞在中の私は、要人たちとの会談でストレートな質問をぶつけ続けた。この話題になると、さすがに誰もが表情を曇らせたが、それでも彼らからそれほどの深刻さを感じなかったのが私には印象的だった。 

 残存燐鉱石の存在、これが彼らを楽観的にさせる最大の要因だったようである。最盛期の輸出量は年間200万トンに達していたが、昨年は2,000トンにまで減少して、それもこのままではあと2、3年で完全枯渇する。ところが、これまで粗放に採掘して採り残していた資源を集約的に採取する方法をとれば、今後十年は30万トン程度の輸出が可能となり、これだけあれば現在の負債を清算し、これまでの教訓を生かして将来に備えることができるとの希望的予測があったからである。

 1989年にナウルは、植民地、信託統治時代を通じて、宗主国が燐鉱石採掘によって獲得した利益のロイヤリティーの支払い、並びに採掘によりダメージを受けた国土の補償を要求して、オーストラリアを国際司法裁判所に告訴した。93年には、オーストラリアが20年間で7,300万ドル、イギリス、ニュージーランドがそれぞれ一括で820万ドルを支払うことで和解した。ナウルはこの和解金を元手に燐鉱石事業復興公社を設立し、資源の再調査と事業復興の計画づくりを進めている。

 この公社で財務局長をしていたのが元日本領事のモーゼス氏で、私との再会は20年ぶりぐらいだったかもしれない。70歳になり髪は真っ白になったが、まだまだ意気軒昂だった。それでも「燐鉱石については、本格的な再開発には新たに相当な設備投資が必要ですし、政治家たちが言うほど楽観的ではありません。補償金も、彼らが送り込んだ地質学者や技術者の給料に消えてしまい、実質的にはナウルにはほとんど残らないのです」とモーゼス氏は公社で働くオ−ストラリア人らを指して言った。

 私たちが見た燐鉱採掘地や老朽化した採掘施設の状況からしても、燐鉱事業がかつての隆盛時に戻るのは、例え一時的にしろ難しいように思えたが、「その通りですが、残念ながら政治家たちが燐鉱現場を視察に来ることなどほとんどなく、現実を把握していないのです」と案内してくれた現場マネージャーは嘆いていた。彼の認識は、さすがに楽観的ではなかった。

 燐鉱石の再輸出に期待できない以上、ナウルが自力で破綻した国家の経済を立て直す妙案があるとは思えない。であれば、当面はオーストラリアの支援を受けながら、今後の身の振り方を模索するということになる。いずれにせよ、極小国家の行く先は不透明である。

 ナウル問題は、8月にサモアで行われた太平洋諸島フォーラムでも話題にのぼり、加盟諸国はできる限り支援すると決議されたらしい。島嶼諸国が実際できる支援がなんなのか、私にはよくわからないが、他の国々は少なくともナウルの教訓を自らにも照らし合わせて十分に学び、それぞれの国家建設政策に反映させていかねばならない。

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