PACIFIC WAY

−ああ、楽園のはずが

     ポナペ・ホテル憤戦記

    −第5回−第2章 ここはポナペ(その2)   

茂田達郎 (しげた たつろう)



第2章 ここはポナペ(その2) Don't eat me!
 「ホテル・スノーランド」は1993年7月8日、オープンした。予定に遅れること1か月余、それでもまだ敷地内の道路整備や造園まで手が回らず、あちらこちらにコーラル屑や砂、砂利、岩塊が山を成していた。しかし、何が何でもこの日オープンしなければならない事情が我々にはあった。既に3か月前から日本の旅行代理店に開業日を予告していて、初日から8月末まで間断なく予約が入っていたのだ。     
 
 雨にたたられてそれでなくとも遅れ気味に推移していた建設工事は、6月に入って進捗状況の翳りがいっそう明らかになった。建設資材調達の不手際、技術者の病気・負傷等が追い討ちをかける原因になった。このペースで進むと7月中の開業さえ危うくなることがわかった。場合によっては、みっともないが部分開業もやむを得ない。腹をくくって建設会社側と協議を重ねた。先方も必死だった。なにしろ工期が1日遅延するごとに100ドルからのペナルティーが発生する。社長自ら陣頭に立って毎夜10時過ぎまで作業に取り組む突貫工事が始まった。傍らで我々は完成した建物から順に電気器具の取り付けやら什器備品のセットアップに追われた。建設従業員はポナペ人とフィリピン人の混成部隊だった。現場は日を追うにつれ、英語、ポナペ語、タガログ語、日本語が飛び交う、多国籍軍さながらの戦場と化していった。

 什器備品は日本から持ち込んだ物のほか、フィリピンで買い付けた家具、アメリカに発注したホテル用品など、コンテナ別に収納してあったが、それらを取り出すだけでも一苦労だった。コンテナ内は隙間なく物資が詰め込まれているうえに、滅茶苦茶暑い。たかだか数分、中に居ただけで全身水を浴びたように汗まみれになり、頭の芯がボーっとしてくる。おまけに日本から運んだ物の多くは、すぐには使い物にならなかった。長期にわたってコンテナに収納されていた間に、暑さと湿気にやられてカビや錆が生じ、なかには塗料が剥落している物もあった。補修と掃除を繰り返しながらのセットアップは意外と根気のいる作業だった。
 
 私にはほかにも、オープンまでに案内パンフレットや予約・宿泊カード、メニューなど種々の印刷物を制作しなければならない仕事があった。コピー機を起動して試し刷りすると、異常な音とともに排出されてきた紙には夥しい泥が付着していた。内部を点検すると土バチの巣がある。分解し、掃除をして再組み立てするだけで1日が消えた。日本では信じられないようなことのために、ここでは時間と労力を費やさねばならなかった。
 
 ほどなくして、我々はオルペット・ファミリーの賄いを離れて自活できるようになった。岩男さんの住まい兼レストラン棟が真っ先に完成、次いでオフィス棟ができあがり、健も発電機棟に隣り合わせた目立たない所にあり合わせの資材を利用して自前の小屋を建て、コロニア・タウンのアパートから移り住んできた。苦労の甲斐あって着実に環境が整いつつあった。セキュリティー目的で建てた現場のニッパハウスは、オープンに備えてそろそろ撤去する必要があった。
 
 そんな折りオルペットが、「カニキの弟のカイユースがスノーランドに隣接した下の土地を所有していて、譲ってもいいと言っているがどうだろうか」と話を持ち込んできた。川に向かって落ち込む急傾斜地でどうひいき目に見てもいい土地とは言えないが、至近距離に彼が住んでいれば何かと心強い。ニッパハウスを解体し、20メートルほど移動すれば、そのまま住まいに利用できそうとあって、先方の言い値の6千ドルで買い受けることにした。
 
 明日、解体・移動するという日の夕方、オルペットから食事に招待された。「珍しいものをご馳走する」と言う言葉に誘われて、のこのこ岩男さんと出向いた私は、土間に足を踏み入れるなり視界に飛び込んできた光景に度肝を抜かれた。なんと体長1メートル近くはあろうかという大きなカメがバナナの葉を敷き詰めた上に仰向けに寝かされている。それをオルペットの長男のペルトリーノと長女の旦那がふたりして山刀で手足を切り取り、腹をかっさばいている最中だった。白いのど頸の下にカメの顔が覗き見える。瞼も口も閉じているが、気のせいか痛々しく哀れを誘う表情が漂っている。たった今、石焼きしたところだと言う。臓物を取り出すとき、湯気とともに異様な生臭い臭いがあたりにたちこめた。思わず顔をそむけると岩男さんと視線が合った。
 
 「ボス、こういうときは顔は見ないようにするんです。見ると食えなくなりますよ」
 目が笑っている。そういえば、岩男さんはラーメン屋を始める前に肉屋をやっていたと以前、聞いたことがある。だからこういう光景には慣れているのだろう。促されてオルペットの横に並んで腰掛けたが、目は点になったようにカメの解体作業から離せなかった。
 
 3度目の訪ポのときだったか、オルペット夫人の実家があるキチ村のウネという部落を訪れたことがあった。「あなたのためにカマテップ(パーティー)を用意している」と招かれたのだ。固辞したが、「これは遠来のお客に対するポナペの習慣だから」と言われて断りきれずに同行した。コロニア・タウンとは反対側の島の南に位置する目的地まで、穴ぼこや岩が露出する悪路をトラックの荷台で揺られることおよそ2時間、やっと到着し、導かれるままに大きなマンゴの木陰に設えられたべンチに腰掛けて一服しようとタバコを取り出し、口にくわえたときだった。
 
 「キャーン!」
 けだるい南国の昼下がりにはおよそ似つかわしくない甲高い悲鳴が空気を引き裂いた。数メートルほど離れたバナナの木立の合間にトタン屋根の小屋があった。中央には大人のこぶし大ほどの石がうず高く積まれ、そこから数条の煙が立ち上っている。山刀を手にした数人の若い男たちの足下に茶色の中型犬が横たわり、胸から血を出し、手足をわずかに痙攣させているのが見えた。ほどなくしてイヌはブタとともに腹を割られ、腸を抉られて熱した石の上に載せられ、その上からバナナの葉が幾重にも重ねられた。
 
 その日、最後まで私は出されたものに口をつけることができなかった。
 「これはイヌじゃない。ブタだから」
 オルペットがペーパープレートに山と盛られた料理を持ってきてくれたなかには、一塊の肉とともに、パンの実のココナッツミルク煮、リーフフィッシュのフライ、タピオカ、フライドチキンなどがのっていたが、私の食欲は完全に殺がれていた。
 
 若い頃、東大の駒場祭で学生たちがイヌを食べたというニュースを新聞で見、戦慄した記憶がある。長じてからも、年輩者から「イヌの肉はうまいんだ。1アカ、2クロ、3ブチ、4シロと言って、赤、つまり茶色の毛をしたイヌが最高なんだ」と高説を賜ったことがある。ポナペを初めて訪れたとき、JOYで健が飼っていたイヌの首に「Don't eat me!」と記したプレートが付けられているのを見て、ポナペではイヌを食する習慣があることも聞き知っていた。だが、見るのと聞くのとは大違いである。目の前の殺戮を目撃した後では、ブタと言われてもイヌに見えてしまって、情けないかな私の胃は頑なに拒否反応を示すばかりだった。
 
 「ボス! どうしたんですか? 顔色悪いすよ、大丈夫?」
 岩男さんに肩を揺すられた。
 「ああ、大丈夫。なんでもないよ」
 平静を装ったものの、目の前のカメがあのときのイヌの姿とダブっていた。
 オルペットの指図で真っ先に私たちの目の前に、大皿に盛ったカメ肉が差し出された。醤油にレモンを少したらし込み、セレ・ポンペイというポナペ特産の超ピリ辛唐辛子を加えたタレの入った小皿が添えられている。
 
 「どうぞ、どうぞ」
 オルペットが勧める。手を出す代わりに私はタバコを取り出した。
 「さっき間食してしまって変に胃がもたれてしまっているもんだから。岩男さん、どうぞ遠慮なく先にやって」
 「そうですか。それじゃ。…………うん、こりゃあうまい! いけますね」
 私の動揺とは裏腹にカメ肉は岩男さんの食欲をそそったようだ。
 「ああ、トリのささみみたいだよね」
 「えっ? ボス食べたことあるんですか」
 「うん、以前にね」
 健にトリ肉だと騙されて一度だけ口にしたことがある。そのときは小さな肉片でカメの姿を見たわけではない。食べた後で「実はカメの肉だ」と知らされた。筋状の肉質はどちらかというとカニに似ているが、食感は軟らかめのトリのささみに近かった。
 
 辞去するとき、オルペットが「後で食べてください」とアルミ箔に包んだカメ肉を持たせてくれた。ほのかにに伝わってくる温もりが、私にはカメの体温のように感じられてならなかった。 
 
 幼いころから『浦島太郎』に慣れ親しんできた日本人の感覚からすると、カメは竜宮城の使者、人間の友だちというイメージがある。イヌも同じだ。食用ではなくペットだ。食糧事情の乏しかった時代はいざ知らず、少なくとも現代はそうしたイメージが定着している。食文化の習慣は国、地域、宗教などによって様々だから、もとより否定するつもりはない。また、岩男さんのように食べられる人もいれば、私のように食べられない者もいる。個人の嗜好に関することだからこれも自由だ。ただ単に私は食べられなかったというだけのことだ。そして今でもカメの首にも「Don't eat me!」のタッグを付けてあげられたらいいのにな、と思っている。
 
 後日談になるが、スノーランドの建設が始まったころ、健が1匹の子イヌをもらってきて「ゴン」と名付けた。赤茶毛のオスイヌだった。ゴンは気のいいイヌでゲストからも気に入られ、すぐに人気者になった。三度三度レストランの余り物にありつける恵まれた環境にあったので、見るからに肉付きがよかった。1997年の春だったか、そのゴンが突然、姿を消した。数週間後、カニキからひとつの情報がもたらされた。「隣の部落のマイラップでゴンに似たイヌが石焼きにされるのを見たという人がいる」というものだった。
 ちなみにゴンには「Don't eat me!」のプレートは付けていなかった。

未婚で子持ちの「乙女」たち
 
 施設の形容が整ってくるにつれ、「いつオープンするんだ」「働かせてほしいんだが」と訪ねてくる者が相次いだ。ホテル、レストラン合わせて10数人は必要になる。可能な限りいい人材をそろえたいし、事前のトレーニングもしなければならない。早めに手を打っておいた方がいいだろうということになって、健がドラフトを作り、私がワープロでアプリケーション・フォームを作成した。6月中旬を申請書の受付け締め切り日、数日後、面接を行うことに決める。しかし、思いのほか志願者が多く、締め切った時点で30人を超え、その後さらに20人近い応募者があって、結局、面接は2日に分けて行うことにした。
 
 面接に備えてあらかじめ書類に目を通しているときだった。住所、氏名、年齢、性別、学歴、経験、家族構成、特殊技能と、フォーム自体はなんの変哲もないお定まりのものだったが、なかに未婚、既婚、離婚の別をマークする項目があって、既婚と離婚欄の下にだけ引き出し線を付けて「子ども□人」と記入するようにしてあった。ところが、未婚欄をマークしておきながら子ども×人と記している者がいる。それも一人や二人ではなかった。
 「なあ、これ何かの間違いじゃないのかな」
 「えーっ、そんなことないと思うけどな」
 ポナペに関しては私よりも先輩で知識に長けているはずの健も、さすがにそこまでは気が回らなかったようだ。
 「ある程度は予想していたけど、これほどまでとは思ってなかった」
 申請書をのぞき込んで唖然としている。それもそのはずで10代後半から20代前半の若い未婚女性の8割方が1人または2人の母になっていた。
 南の島の人は概して早熟だし、大らかだ。ましてポナペ人はキリスト教を信仰しており、キリスト教では堕胎を戒めている。仮に堕胎を望んだとしてもポナペではそのオペレーションを行う施設も技術もない。それで、どんどん子どもが増えていくのだろう。
 
 これを結果として許容しているのがポナペの家族制度である。ポナペは昔の日本と同じで今も大家族制だ。結婚後も夫、妻どちらかの家族とともに暮らすケースがほとんどだ。一般的平均家庭の出生率は正確な統計がないので不明だが、おおよそ7〜8人の間と推測される。それぞれが結婚年齢に達すると、兄弟姉妹のつれ合い、甥,姪の誕生で一気に膨れ上がることになる。そして未婚の姉妹に子どもが生まれたとき、この大家族の中にごく自然に取り込まれていく。姉妹や年長の姪、甥たちが、我が子、実の兄弟姉妹同様に面倒をみる。だから親がなくともいっこうに困らないし、気にもしないのだ。
 
 大体、ポナペ人の多くは「養育費」とか「教育費」とかの概念があまりない。年間5,000ミリ前後と言われる降雨が豊かな自然の恵みをもたらし、食べ物に不自由しないせいもあろう。常夏の島では衣料費もかからない。教育は先進国の援助もあってたいていの子がハイ・スクールを卒業している。成績の良い者は全額政府の援助でカレッジにも行ける。つまり、日本のように教育費に戦々恐々としないですむことが、かくも安易に子どもを産み落とせる背景にはあるのかもしれない。
 
 しかし、こうしたメカニズムが「見えて」きたのは、ずっと後になってのことだ。当時は「ポナペの性教育は一体どうなっているんだろう。このままいったら島じゅう人だらけになっていつか海に溢れ出すんじゃないか」ぐらいにしか思っていなかった。
 
 面接の当日、「南の島の乙女たち」はあらかじめ指定した時刻に合わせて三々五々やってきた。マラマルと呼ばれる花冠を頭上に頂いた者、薄くルージュやマニキュアで化粧した者もいるが、総じて無化粧、足下はみな素足にビーチサンダルという定番である。ロビーに俄か仕立てのテーブルとイスを用意して一人ずつ招じ入れる。対するこちら側は岩男さんと健、私、そしてオルペットにも加わってもらった。素性や評判、盗みなどの悪癖を知るためにはなんといっても事情に通じた彼の意見が不可欠だった。
 面接に際して岩男さんとは判定基準について協議済みだった。レストランのウェイトレスは愛想のいい可愛い娘、レジはしっかりした信用のおける者といった具合にである。だが、それはあまり意味をなさなかった。可愛い娘は全く経験がなかったり、しっかりしてそうに見える者に限ってオルペットが異論を唱えたからだ。そのため選考は難航し、最終的にはオルペットが推す人選に落ち着いた。
 
 2日間延べ50人に及ぶ彼女たちとの面談を通じてわかったことは、未婚、既婚にかかわらずある程度年齢のいった女性はおしなべたように肥満していることだった。「若いときはナイス・プロポーションなのに、どうして?」とオルペットに聞いてみた。彼から返ってきたのは「ポナペでは痩せていると、旦那が十分に飯を食わせていない、つまり甲斐性のない男と思われるんです」という答えにならない答えだった。
 「タヒチを愛し、若いタヒチ娘を妻にめとったゴーギャンもあるいはこうした矛盾にぶつかったのかもしれないね」
 岩男さんがどう思ったか知りたくて水を向けると、
 「いや、多分そうでしょう」
 やけに力のこもった言葉が返ってきた。
 
 つい最近まで週2日、掃除に来てもらっていたシリシリという名の30過ぎの女性がいる。健のかみさん、エべリーンの従姉妹にあたる。彼女の姉のセーリーンはホテルのフロント係として、また妹のマルガリータはメイドとして、このとき採用したスタッフだった。セーリーンは当時24歳、未婚だったが既に一人の子持ちだった。マルガリータは19歳、こちらは数少ない正真正銘の独身で、姉と違って小柄でスリムな体躯をしていた。シリシリの話によると、マルガリータは3年ほど前に結婚し、マタラニュームに住んでいるという。ナンマ・トール遺跡のある村だ。二児の母となった彼女は今、丸々と肥ってかつてのイメージはないそうだ。セーリーンはスノーランド在職中にオルペットの四男アンソンと結婚した後、彼との間に三児をもうけた。先日、スノーランドにやってきて久しぶりに顔を合わせたが、肥満にますます磨きがかかった感じで、どう見ても朝青龍の上はいっていると思われた。
 
 シリシリは未婚だが、四児の母である。彼女に尋ねたことがある。
 「なぜ結婚しないで子どもをつくるんだ」
 「間違えたのよ」
 「間違い? 間違いって言ったってそうそう間違えるわけないだろう。4回も間違えたってことか?」
 「ううん、3回。だって1回は双子だもん」
 エべリーンの情報によるとシリシリはまた妊娠したらしい。今度の相手は年下だとか。またミステイクと言うのだろうか。
 ポナペ社会に3人の孫娘を持つおじいちゃんの私としては心中穏やかならざるものがある。まして両親たる息子たちの懸念はいかばかりか察して余りある。

(次号に続く)