PACIFIC WAY

−ああ、楽園のはずが−
 
    ポナペ・ホテル憤戦記
  
      −第2回−第1章 ここはポナペ(その1)

(社)太平洋諸島地域研究所
茂田達郎(しげた たつろう)



第1章 楽園伝説(その1)  「息子を訪ねて」

 耳奥に圧迫感を感じて目を覚ました。いつのまにか寝入ってしまったらしい。

 機体が右に傾いて、わずかずつ降下している。窓の外に目をやると、透き通った青い空の下、もこもこと盛り上がった真っ白い雲が無数に漂い、その合間から熊手でひっかいたような線状紋様の紺碧の海原が見てとれる。ところどころに深淵と見間違える雲のつくる陰影が黒く斑を呈している。
 
 と、何の前触れもなく陸地らしきものが視界に飛び込んできた。白線で縁取られた黄土色の帯がエメラルドブルーの帯を従えて、蛇行しながら遙か彼方へと延びている。その先は雲に隠れて見えない。コバルトブルーのキャンバスに滲み入るようなエメラルドブルーが、ひときわ鮮烈だ。地球の息吹が伝わってくる感じがする。ほどなくして、その帯状のなかに黒く、明らかに島とわかる影が映った。それで、黄土色のそれは珊瑚が形成する環礁で、白い縁取りは環礁にあたって砕ける波だとわかった。

 傍らの娘を揺り起こして知らせると、眼をしばたたかせながらも身を乗り出してきた。「わあ!」と言ったきり、言葉が続かない。既に座席ベルト着用サインは出ていたが、娘に窓際の席を譲ってやる。

 私も娘の亜紀も初めて目にする雄大な環礁だった。これがあの有名なトラック環礁であると知ったのは、乗機がこのあとしばらくしてトラック(チュック)島に着陸したときだった。

 1990年2月中旬、私と娘は息子の友人らとともにポナペに向かうコンチネンタル・ミクロネシア航空機の機内にあった。娘の高校卒業記念に「何か欲しいものはないか」と尋ねたところ、「お兄ちゃんのいるポナペに行きたい」というので、卒業式が終わるのを待って、この日の出発となったのだ。息子の友人ら二人もぜひ行きたいというので、同行することになった。

 夜、成田を発った機は、3時間半ほどでグアム空港に到着した。待合室は深夜にもかかわらずトランジット客でごったがえし、異様な熱気とざわめきが充満していた。直径60〜70cmはあろうかと思われる大きな扇風機が何台も唸りをあげて、人いきれとタバコの煙をかき混ぜている。エアコンは入っているようだったが、さして効果があるようには思われなかった。長椅子に腰掛けたまま窮屈な格好でうたた寝している者、床に新聞紙を広げ、手荷物を枕がわりに仮眠している者もいる。とても我々が手足を伸ばせそうな場所は見当たらない。仕方なくスナック売店の空いているテーブルを見つけて陣取り、乗り継ぎ機の出発時間を待つことにした。といっても7時間以上ある。娘が持ってきたトランプでゲームをしたり、とりとめもないおしゃべりをして暇つぶしをしていたが、すぐそれも飽きて思い思いに所在ない時を過ごした。そんなわけで、乗り継ぎ機に乗った直後、どっと睡魔に襲われ、離陸したのも気づかないありさまだった。
 
 我々の乗ったボーイング727型機は、青い珊瑚礁の海を舐めるようにしてトラック島国際空港の滑走路に着陸した。グアムを発ってから1時間半ばかりたっている。ランディングの瞬間、「ドン!」と大きな音と衝撃があって、ついで急ブレーキによる制動で機体が「ビシビシ!」と悲鳴をあげ、体が前方に放り出されそうになる。娘も思わず私の腕をぎゅっとつかんだぐらいだったから、よほど怖かったに違いない。 

 機がやっと停止し、機首をめぐらして反転する。窓のすぐ先に滑走路があり、その先は波ひとつない穏やかな海が広がっている。

 「もしオーバーランしていたら」

 ふと、そんな懸念が頭をよぎる。

 スチュワーデスが勧めてくれたので、足腰を伸ばしがてら機外に出てみることにした。グアムで機乗したときと同じで、後部ハッチが開いていてタラップが付けられている。コンクリートづくりの駐機場に降り立つと、熱波が全身を包んできた。が、「たまらない」というほどではない。照りつける日差しはさすがに強烈だが、そよそよと吹き抜ける風がそれを和らげ、むしろ心地よい。日本では台風の通り過ぎた後か正月ぐらいにしか望めなくなった澄んだ青空とフレッシュな空気をしばし堪能する。

 駐機場の前方に通路で結ばれて建っている建物に向かって一群の行列がある。どうやらそこにイミグレーションと税関があるらしい。

 「もとは日本の海も空もこのくらいきれいだったんだ。お父さんが子どものころはね」

 機内に戻ってから娘に話して聞かせていると、前方のカーテンが揺れて制服姿のクルーが現れた。カーテン越しに大きなネットに覆われたバッゲージの山が見える。グアムで乗ったときには眠気が先に立ってたいして気にもとめなかったが、727型機にしては座席がやけに少ないのと後方に寄っているなという印象を持った覚えがある。それもそのはずで、なんと操縦室の後ろ、乗客席との間が貨物室になっていたのだ。

 大きな体で大きな荷物を抱え込み、草履履きで飛行機に乗り込んでくる現地の人たちといい、空港といい、飛行機といい、すべてが素朴で飾り気がない。そういえば、グアムからの機内は日本人は我々だけだった。

「地球の田舎に来たって感じだね。ポナペもこんなかな?」

「多分ね」

「もうすぐお兄ちゃんに会えるんだね」

 答える代わりに私は小さくうなずいた。

 私たちが息子と会うのは実に2年ぶりだった。息子は3年前に高校を卒業し、琉球大の海洋学科を目指したものの見事に失敗した。翌年、再挑戦したいということで、尾瀬小屋でアルバイトをしていたが、そんなある日、高校時代の友人から「祖父がポナペでダイビング・ショップとホテルをやっている。働いてみる気はないか」と誘われた。とにかく現地を一度見ないことにはと、その年の秋、ポナペに飛んだ息子は、いっぺんで気に入ったらしい。帰国するなり興奮した口調で「ぜひ行きたい」と言う。もともと熱しやすくて冷めやすい傾向のある息子だけに、私も家内も「じっくり考えてからでも遅くはない。それに大学はどうするんだ?」と諭したが、「親父たちはいつも自分の人生なんだから自分の好きなようにしろとか、学校だけがすべてではないって言っているじゃないか」と、逆襲してくる。結局、こちらが根負けした形になった。知り合いを頼り、急遽スキューバダイビングのガイドに必要な「ダイブマスター」の資格を取得して、息子がポナペへと慌ただしく旅立って行ったのは、その年もそろそろ押し詰まろうという頃だった。

 以来、ときどきポストカードで近況を知らせてきてはいた。「お宅の息子さんに現地でお世話になった者です」と、親切な旅行者が息子の写真を送ってくれたりもした。その限りでは、元気で充実した日々を送っている様子だった。しかし、それで私たちが安心できたかというと、決してそうではなかった。

 「健はどうしているだろう? 成人式も祝ってやれないまま見知らぬ外国に送り出した息子への憐憫が、今、自分をここへ導いているのかもしれない」などと詰まらぬことをこのときも考えていた。
 
 
「ジョイ・アイランド」
  
 ポナペまではトラックから1時間ほどの航程だった。滑走路は似たり寄ったりで、再度、航空母艦への着艦さながらの体験を味わうことになった。タラップを降り、空港施設のある建物に向かってぞろぞろと歩いて行く人の列にくっついていく。建物の左横に金網のフェンスが張られていて、大勢の人がこちらを注視している。子どもらしき声が飛んできて、前を行く一人が手を上げて応えている。のどかなものだ。

 空港施設はトラックに比べ整然としていてこぎれいな感じだった。つくってまだ日が浅いのか、コンクリート壁の白ペンキが真新しい。入国審査と税関検査を終え、ゲートを通り抜けると開けたホールがある。高屋根の嵌め込みガラスから明るい日差しが差し込んでいる。

 出迎えの人たちの中に赤銅色に日焼けした息子の明るい笑顔があった。白いランニングシャツに短パン、帽子のつばを後ろにして被り、腰には黄色いポシェットをつけている。体がひとまわり大きく、たくましくなったようだ。同僚だというクリノという青年を紹介すると、息子は彼を手伝わせて手際よくバッゲージをクルマに積み込んだ。

 空港を抜けるとすぐ、両側に海が迫った長い直線道路に出た。ヤシの木が道端に植え込まれていて、葉が風にそよいでいる。

 「空港のある所はもともと島だったんだ。空港をつくるときにこの道路もつくって、本島とつなげたんだ」

 息子の口調に職業的な匂いを感じて私は思わず苦笑した。恐らく毎日のようにこうして旅行者を出迎えてはガイドしているのだろう。

 海岸が切れたあたりから一方通行の標識のある急勾配の坂道を上がり、ほどなくしてホテルに着いた。3階建てのコンクリート造りで「JOY HOTEL」の字が看板にある。積もる話は山ほどあったが、とにかくシャワーを浴びて、ひと寝することにする。

 ドアをノックする音で眠りが裂かれた。息子の案内でオーナーの鈴木夫妻、鈴木氏のお姉さん夫婦とおばあちゃんの所に挨拶に行く。息子がポナペに来るきっかけをつくってくれたのは、このお姉さん夫婦の一人娘、紀子ちゃんだ。紀子ちゃんの両親とおばあちゃんは、ホテルの裏手の道を挟んだ所でレストランとハンディ・クラフトの店を営んでいた。おじいちゃんの豊氏が先年他界されたことは、既に息子からの連絡で知っていた。

 お悔やみを述べる私に、豊氏が生前こよなく愛した「ジョイ・アイランド」という小さな島があると、おばあちゃんが教えてくれた。明治時代に日本からポナペに来てキチという村で教師をしていた豊氏の父親は、教え子の娘と恋に落ち、そして豊氏が生まれたのだという。ポナペ生まれでポナペ育ちの豊氏はうるさい街中よりも静かで落ち着く島の生活を好んだようだ。

 「いいところですよ。バンガローもありますから泊まりがけでぜひ行ってらっしゃい。健ちゃん、あんたお父さんたちと行ってきなさいよ」

 しきりに勧めてくれる。息子の話によると、ジョイ・アイランドは有名なナンマドール遺跡の近くにあって、空港に出迎えてくれたクリノの両親と弟が管理人として島に滞在しているという。

 4日後、私たちは息子とクリノを加えた6人でジョイ・アイランドへと向かった。小型トラックの荷台に、氷と飲み物、食料を詰め込んだ大型のアイス・チェーサー、着替え、スノーケリングの器材などを積み込む。結構な大荷物だ。 

 コロニアの街を抜けた途端、舗装道路が切れ、でこぼこ道になる。それもそこかしこに大きな穴があいている厄介な道路だ。トラックの荷台で揺られるだけならまだしも、ときとして跳ね上げられる。しっかり荷台の端につかまっていないと、振り落とされそうになる。そんな我々を現地の人たちが行く先々で手を振り、あるいは笑顔で歓迎してくれる。幼い子どもだけではない。真っ黒い顔にギョロッとした目つきのいかにも怖そうなおじさんが、次の瞬間、真っ白い歯をのぞかせ、親しみのこもった笑顔を投げかけてくる。破顔一笑というのはこういうことを言うのだろう。

 「ポナぺの人って見かけと全然違うね。みんなフレンドリーだね」
 
娘はすっかり感動してしまったようだ。

 道ばたのあちこちにヤシやバナナ、パパイヤなど、たわわに実をつけた果樹がある。かと思えば名も知らぬ色とりどりの花が咲き乱れ、どこからか甘い芳香が漂ってくる。子連れのブタがとことこ行く手を横切るかと思えば、イヌが道の真ん中で寝転がっている。都会生活に慣れた私たちにとってはすべてが珍しく、新鮮だった。おかげで2時間におよぶトラックでの移動も全く飽きることがなかった。

 我々の乗ったクルマは、大きく開けたなだらかな斜面にゆったりとスペースをとって数棟の建物が配置されている公共施設らしき片隅で停止した。

 「ここはパッツ・ハイスクールっていう職業訓練学校。クルマをここに置いて、この先は舟でジョイ・アイランドまで行くんだ。無線で知らせておいたから、もうクリノの弟のアンソンが迎えに来ていると思うんだけど」
 話しているそばから、海岸に面した建物の影に回りこんだクリノが小柄な若者を伴って戻ってきた。挨拶を終え、舟に荷物を運び込む。我々が乗り込むと船縁近くまで水が迫った。5馬力のエンジンがきしみながら始動する。平底の舟はのろのろと岸を離れた。しばらく岸に沿って進み、やがて船はマングローブ樹林のトンネルに入った。密生する木々に覆われて日差しがほとんど届かない。時折、鳥のさえずりが甲高くこだまする。狭くて浅い水路を舟は巧みに障害物や浅瀬を避けて舟が進んだ。

 と、忽然として視界が大きく開けた。青い空とインディゴ・ブルーの海とが視界いっぱいに広がって、その狭間、行く手正面に白い砂浜とヤシの木に覆われた小さな島が浮かんでいる。一瞬、異次元空間に迷い込んだような錯覚に陥る。

 「あれがジョイ・アイランドだよ」

 エンジン音に負けまいと、息子が怒鳴るようにして言う。

 周辺の海は枝珊瑚やテーブル珊瑚がひしめき、無数のコバルト・フィッシュやクマノミが群れている。波紋を映した水底の砂がきらきらとまたたいている。

 「なんという美しさだろう。こんな世界があるなんて」

 私は言葉を失ってじっと見入っていた。

 イヌのほえる声で我に返ると、舟は既に島のすぐ近くに寄っていた。1頭のイヌが水しぶきをあげながら近づいてくる。尾をちぎれんばかりに振っている。

 「ヤマトー!」

 クリノが語尾に妙なアクセントをつけて呼びかける。

 オレンジ色のアウトリガー付きカヌーが砂浜に係留してある。傍らに海に突き出すように珊瑚石を積み上げてつくった桟橋があり、その上を細身の男性と肥満した巨体をもてあますかのように揺らしながらこちらに向かって歩いてくる女性の姿があった。                                          
 (次号に続く)