PACIFIC WAY
    
     フィジークーデター(2006年)の経緯・論理・展望
 
 

東   裕 (ひがし ゆたか)

はじめに
 
 2006年12月5日、フィジー諸島共和国でバイニマラマ国防軍司令官によるクーデターが発生し、同司令官が全権を掌握、翌6日には全土に非常事態宣言を布告した。この政変により、ガラセ首相が追放され、議会も解散された。この事件はわが国のマスコミでも報道され、にわかにこの南太平洋の小国に対する関心が高まった。
 マスコミ報道は、おしなべてクーデターという「反民主的」行為への非難と「過去20年間で4度目のクーデター」というフィジー政治の後進性の強調を基調とする、きわめて皮相な分析に終始した。
 過去3回のクーデターが無血クーデターであったこと、2000年のクーデターは軍によるものではなく文民クーデターであったこと、といったフィジー的クーデターの特徴が報道では全くと言っていいほど無視されていた。過去3回のクーデターと違い、フィジー先住民系がインド系政権を追放する、という従来の構図とは正反対のクーデターであったことも、ほとんど触れられることがなかった。
 「クーデター」という言葉の衝撃的な響きだけが新聞紙面に踊り、それに見合った映像の断片がテレビ画面から流された。その結果、この国についてなんら知識をもたないわが国の多数の人々に、あらたな偏見を植え付けることになったのではないかと危惧される。
 本稿ではこのクーデターの発生から一応の収束に至る経緯を報告するとともに、クーデターの発生からおよそ3ヶ月を経過した時点でのフィジーの現状を伝えたい。
 
 
1.クーデターの背景と経緯
 
 今回のクーデターに至る背景には、2000年クーデター事件とその後の軍内部での反乱の事後処理問題、ガラセ政権の先住民政策・財政政策、および同政権の腐敗等の諸問題が複雑に絡んでいる。ただ、それらが何故クーデターという非常手段を行使して解決されなければならなかったのかについては、いまだにはっきりしない部分もある。
 2000年の文民クーデター後にガラセ暫定政権をつくったのがバイニマラマであり、その後ガラセ政権は5年間の政権運営を経て、2006年5月の総選挙において信任され、前政権が抱え続けた違憲の組閣問題を解消した新内閣を組織して以来、まだ半年あまりしか経過していなかったからである。
 また、クーデターを実行することによる様々な影響、とりわけ経済と国際関係への負の影響については、これまでの経験から誰しも容易に想像が及ぶことであり、そのリスクを冒してまで、あえてクーデターを実行する理由が合理的に考えて見あたらないからでもある。
 しかし、現地のさまざまな情報を総合すると、いまだ不分明な点は残されているものの、この時期にクーデターにまで至ったことについて、それなりに十分な合理的説明がつく理由もある。いずれ、今回のクーデターの「真相」が明らかになろうが、現時点では、これまでの報道をもとに、クーデターの背景と経緯を紹介したい。
 
(1)2000年クーデターの事後処理問題
 政治の舞台では、2001年の総選挙後の組閣以来、複数政党内閣の組織を巡って与党SDLとフィジー労働党(FLP)間の争いが裁判闘争として展開され、2003年にはガラセ政権の組閣を違憲とする判断が最高裁判所で示されたものの、さらに労働党からの入閣者をめぐって調整がつかず、5年の任期を前倒しする形で2006年5月に下院の総選挙が実施された。このような状況は、フィジーの二大政党間、すなわち二大民族間の利害関係の調整が、依然として政治の表舞台での最大の課題であることを示していた。
 こうして2006年5月の総選挙を迎え、与党SDLが勝利を収め、ガラセ首相再任が決まった。憲法の定めるところにより、SDLとフィジー労働党による複数政党内閣が組織され、以後この政権がフィジー系とインド系の民族融和に向けた政策をどう実現していくか、その政権運営の帰趨がもっとも注目されるものとみられていた。先住民系とインド系の二極化がより鮮明になった政党状況の中で、複数政党内閣がどのような政策を実行し、国民統合を推進し安定的な政権運営を行っていくかが第2次ガラセ内閣の課題とみえていたのである。
 ところが、このような政治の舞台とは別次元で、それまで折に触れてガラセ政権を批判してきたバイニマラマ国防軍司令官とガラセ政権の対立が、顕在化するようになっていく。その伏線は、2000年のクーデター後に起きた軍内部での民族派の反乱にまで遡るが、直接の契機は、2005年7月、2000年のクーデターに関与し刑罰を科せられた者の恩赦等を定める「和解法案」(Promotion of Reconciliation, Tolerance and Unity Bill 2005)をガラセ政府が国会に提出したことである。         
 ここに軍と政府の対立が顕在化し、以来この対立が根強く尾を引くことになる。というのも、この和解法案の恩赦対象者には2000年の国防軍内の反乱に関与して服役中の者も含まれるからで、この反乱ではバイニマラマ自身が狙われ、危うく命を落としそうになっていたからである。
 
(2)ガラセ政権の民族主義(人種差別)的政策
 国家が管理している伝統的漁業権を国家から先住民権利者へ移譲することを内容とする「ゴリゴリ法案」(Qoliqoli Bill)と先住民保有地の土地紛争に関する「土地審判所法案」(Land Claims Tribunal Bill)は、先住民フィジアンの伝統的権利を強化するもので、この二つの法案に対してバイニマラマは民族主義(人種差別)的であるとして、その撤回を要求していた。
 この2法案以外にも、ガラセ政権のアファーマティブ・アクション(積極的格差是正措置)・プログラムについても、教育に関する政策(Education blueprint)は人種差別的であると多くの人々から批判されていた。この政策では、先住民フィジアンの経営する学校に通う先住民フィジアンだけが利益を受け、先住民フィジアンであっても先住民フィジアン以外が経営する学校に通う生徒は対象外とされていたからである。
 その根底には、先住民フィジー人とインド系国民との間の権利関係の調整の問題(先住権原と憲法の保障する国民の諸権利の調整)があり、先住民の権限をより強く保障しようとする勢力と先住民の権利を尊重しつつその保障に一定の歯止めをかけようとする勢力との葛藤があった。前者を仮に民族主義派と呼ぶとすれば、後者は近代派とでも呼ぶことができよう。そうすると、ガラセ首相は民族派で、バイニマラマ国軍司令官は近代派ということになる。
 
(3)ガラセ政権の経済・財政政策の失敗と腐敗
 2006年11月、ガラセ政府はVAT(付加価値税・消費税)を現行の12.5%から2.5%引き上げて15%とし、2007年から実施すると発表した。この増税は5月の総選挙の際には触れられなかったもので、これは国民の約35%を占める貧困ライン以下で生活している貧困層にとって、もっとも大きな打撃となるのは明らかだった。その意味で、この政策は間接税のもつ一般傾向として大衆課税になり、富裕層にとってはそれほどでもないが、そうではない一般の労働者階層にとっては生活を直撃する増税として、富裕層優遇の格差拡大政策とも捉えられた。
 しかも、このような増税をせざるを得ない状況に追い込まれた大きな原因の一つが、第二次ガラセ内閣による閣僚数の拡大や公務員給与の引き上げによる人件費支出の増加、および政府機関の運営の非効率に起因する政府財政の逼迫にあるとあっては、とうてい多数の国民の支持を得られるものではなかった。
 経済政策においても、フィジーの基幹産業の一角を占める砂糖産業の不振に対し有効な政策を出せず、雇用政策においても増加する学校卒業者に十分な雇用を確保することができず、貿易面では輸出産業の不振で国際収支が悪化するなど、全面的に無策ないし失敗という状況を呈していた。
 また、5月の総選挙においてはガラセのSDLによる不正投票疑惑や汚職の噂などの政治および行政の腐敗が公然と指摘されてもいた。経済活動の低迷、社会的格差の拡大、および政府のモラルの低下は、一方で社会における犯罪行為の増加をもたらし、治安の悪化が深刻化していた。
 このように、ガラセ政権は、5月の総選挙で勝利したにもかかわらず、山積する課題に有効な政策を打てず、ガバナンスの悪化が深刻な問題として顕在化していった。こうした諸問題を巡り、バイニマラマ国軍司令官は、繰り返しガラセ政権を批判し、軍と政府の亀裂が深まっていったのである。
 
(4)オーストラリアによる介入の危機
 オーストラリア海軍の軍艦3隻が11月はじめにオーストラリアから出港し、クーデター発生後に混乱が生じた場合にフィジー在住オーストラリア人を救出する目的でフィジー沖で待機していた。ところが、11月29日に演習中の軍のヘリコプターが軍艦への着陸に失敗して海中に墜落し、乗員1名が死亡し、1名が行方不明となる事故が発生した。墜落機には10名が乗り組んでいたが、そのうちの6名が特殊部隊オーストラリア特別空軍(SAS)の所属であることがオーストラリアのニュースで伝えられ明らかになった。
 近年、ハワード政権のオーストラリアはフィジーを含む南太平洋諸国の内政に干渉する傾向にあるが、自国民救出の目的とはいえフィジーの領海の近くに3隻の軍艦を派遣し、そのうえ特殊部隊員を乗り組ませていたことは、フィジーの独立と主権を脅かすものであるとバイニマラマ国軍司令官は判断した。しかも、軍艦の派遣はガラセ首相の要求ないし同意の下に行われたことは明らかだと思われた。
 フィジー憲法104条は、フィジーの統治に関わる問題については、首相は大統領に対し常に一般的に情報を与えていなければならないと定めているが、ガラセ首相はオーストラリア海軍の行動については大統領への報告を怠っていたことが、この事故で露見したのである。さらに言うなら、クーデターが発生した際に、ガラセ首相はオーストラリア軍の介入を要請して鎮圧する意思をもっていると、バイニマラマは判断したと考えられる。
 時あたかも、ニュージーランドで、同国外相の仲介によるガラセ首相とバイニマラマ国軍司令官との会談が行われた日にこの事故が発生し、その後の事故報道の中でヘリコプターの乗組員の中に特殊部隊員がいたことが判明したのである。この一件が、最終的にバイニマラマの背中を押し、クーデターの実行へと事態は進行していったものと思われる。
 
 
2.クーデターの発生と展開
 
(1)「浄化作戦」(clean up campaign)の予告
 2005年あるいは2002年秋以来のガラセとバイニマラマの対立の末、まずガラセがバイニマラマ外しにかかる。2006年10月31日、ガラセ首相は、バイニマラマ国軍司令官がPKOで中東派遣中のフィジー軍訪問中に、メシ・サウブリナヤウ大佐に国防軍司令官就任を打診した。サウブリヤナウ大佐は、当初この申し出を受諾したものの後にこれを撤回し、軍とバイニマラマ国軍司令官への支持を表明した。こうしてガラセによるバイニマラマ更迭劇は失敗に終わり、事のてんまつが当の大佐の口から暴露されてしまったのである。
 それに対し、11月7日には、バイニマラマ国軍司令官が、オーストラリア人のヒュージ警察長官の解任を政府に要求し、11月21日には、「軍が提案した9つの要求事項を2週間以内に政府が呑まなければ、『浄化作戦』(clean up campaign)を実施する」と政府に対し、クーデターの警告を発するに至る。こうして、アレキサンダー・ダウナー豪外相のいう「忍び寄るクーデター」(creeping coup)が開始されるのである。
 こうした、政府と軍の深刻な対立に鑑み、ニュージーランド政府が仲介に入り、11月29日、ガラセ首相とバイニマラマ国軍司令官は、ニュージーランドで会談を行なう。翌30日、ガラセ首相は、バイニマラマ国軍司令官の要求を容れて大幅に譲歩すると発表するも、バイニマラマ国軍司令官は、あくまで軍の要求の全面的無条件受け入れ主張し、それが容れられない場合は「平和裏の政権移譲」を要求して、会談は不調に終わった。
 この時、29日に起こったオーストラリア海軍のヘリコプター墜落事故とそこに特殊部隊の隊員が含まれていたことが、すでにバイニマラマの耳に達していたものと推測される。このことが、バイニマラマの態度をいっそう硬化させ、クーデターの実行を決意させたものと思われる。会談を終えてフィジーに帰国後、バイニマラマ国軍司令官は「浄化作戦」の実行の準備に着手する。
 
(2)クーデターの実行と暫定政権の成立
 12月4日には、バイニマラマ国軍司令官は、警察から武器弾薬を没収し、首都スバ市内の各所に軍兵士による検問所を設置する。翌5日、大臣公用車両を没収し、首相官邸に軍兵士を多数派遣する。そして、夕刻6時にはフィジーの行政権の掌握と暫定政府の発足を宣言し、バイニマラマ自ら大統領代行に就任することを宣言し、6日には治安維持のため非常事態宣言を発出し、元軍医のセニランガカリ博士を首相代行に任命した。
 こうして、暫定軍事政権が成立するが、2007年の年明けの1月4日、バイニマラマは暫定大統領職を辞し、その地位をクーデター前に占めていたイロイロに返還することで暫定クーデター政権は終了し、1月5日には、イロイロ大統領からの任命を受けて、バイニマラマが暫定政権首相に就任した。
 1月8日にバイニマラマ暫定首相は8名の閣僚を任命し、翌9日には、さらに6名の閣僚を追加任命して、首相と14名の閣僚からなる暫定政権(Interim Government)が発足する。内閣の最大の目玉は、2000年のクーデターで追放されたインド系のチョードリー前首相が、閣内での最重要ポストである財務・国家計画・公企業および砂糖改革大臣に就任したことである。そのほかにもFLP、SDL、NAP、UPPの各政党出身で担当各省の行政に詳しい人材を配置し、両民族からなる複数政党内閣が組織された。そして閣僚には、いずれ行われる下院議員選挙への出馬禁止を条件とし、閣僚ポストを利用して政治活動を行うことを牽制している。
 このようなバイニマラマの対応に接し、大酋長会議(首長大評議会:GCC / BLV)議長はバイニマラマ暫定首相とその内閣への全面支持を表明するとともに、国民にも支持を呼びかけ、当初の反バイニマラマの態度を一変させた。メソジスト教会やカソリック教会も、バイニマラマ暫定政権への支持を明らかにした。2月下旬には、2010年までに下院議員総選挙総選挙を実施することを明らかにし、「民主政」復帰に向けたスケジュールが示された。
 こうしたフィジーの安定した状況に対しても、オーストラリア・アメリカ・EUなどは、依然としてバイニマラマ暫定政権を承認しない姿勢を維持し、早期の総選挙実施を求めてフィジーに対し「外圧」をかけ続けている。
 
 
3.クーデターの論理
 
 2006年12月5日、バイニマラマ国軍司令官は声明を出し、クーデターの実行に至った理由・正当性およびその合憲性・合法性を国民に訴えた。バイニマラマ自身は、今回の政権交代を「浄化作戦」と呼び、クーデターという認識を避けている。現地報道機関やオーストラリア政府などの見解は、この政変劇をその予備段階から「クーデター」と見做しており、その見解は誤りとはいえないが、異例の形のクーデターであることは間違いない。
 この点について、バイニマラマ国軍司令官の声明(STATEMENT OF FIJI COMMANDER BAINIMARAMA(12/5/06))をもとに、その特殊性をみてみたい。
 
(1)クーデターの大義
 クーデターを実行するに至った理由は次のように語られる。
 「フィジー国防軍は、数年来政府に対し国家安全上の関心について問題を提起してきた。とりわけこれまで国論を分裂させ、未来の世代に重大な禍根を残すことになるとして、論議のあった諸法案と諸政策についてである。これらの関心事を国益中心に考え、公正かつ真摯に首相に対して進言してきた。
 だが、すべての国防軍の関心事は、明らかに真の精神において受け入れられることが全くなかった。政府に対する私のすべての努力が無駄になり、それどころか政府はフィジー国防軍自身に対し、私の助言を軽んじるよう仕向け、私の更迭と国防軍内部での分派工作を図り、2000年に国家が導かれていた破滅への道から国家を立ち上がらせ再建した制度を破壊しようとしたのである。
 ガラセは、賄賂・腐敗そして問題の諸法案の提出によって、すでに『静かなクーデター』(silent coup)を実行してきたのだ。
 このような場合に、憲法は大統領が首相を解任することを認めている。しかしながら、状況の行き詰まりが私が前に出ることを余儀なくさせ、軍が政権を掌握したのである。フィジー国防軍(RFMF)は、一貫して合憲的・合法的かつ迅速にこの行き詰まりの打開を望んできた。フィジー国防軍は違憲的かつ非合法的行動をとることもできたが、そのような行動をとらず、今後も行うつもりはない。」
 ここに示された見解を要約すると、和解法案、ゴリゴリ法案、土地審判所法案などの問題に対し、バイニマラマ国軍司令官は国益を考えてガラセ首相に幾度となく進言してきたが、腐敗の進行したガラセ政権は真摯な対応を怠り、バイニマラマの更迭と軍の分裂を仕掛けたため、国防軍がやむなく政権を奪取したということである。そして、この行動は、合憲かつ合法であるとする。ここには、いわゆるクーデターではないとの主張がこめられている。
 
(2)法の支配・憲法の精神・立憲主義の支持
 フィジー国防軍は、法の支配と憲法および立憲主義を支持することを次のように宣言する。 
 「フィジー国防軍は、法の支配(rule of law)が存在することを信じ、憲法を支持する。それだけでなくさらに重要なことは、法と憲法の精神への支持(the adherence to the spirit of the law and constitution )の存在を信じることである。
 ガラセ政府の提出した法案、例えば和解法案、ゴリゴリ(Qoliqoli)法案、および土地審判(Land Claims)法案が国会で可決されれば、それらは憲法を侵害し、かつ憲法の下で保障された多くの市民権を奪い、司法を含む憲法上の公職の完全性を危うくし、侵害する。フィジー国防軍は、憲法の存在を信じるだけでなく、立憲主義(constitutionalism)を支持しその存在を信じる。」
 次に、フィジー国防軍は、イロイロ大統領に対してガラセ首相の解任を暗に求めてきたことを明らかにし、大統領には例外状況において首相を解任する権限が法的に認められているとする。
 「フィジー国防軍司令官として、ここ数日間幾度となく国家元首でありかつフィジー国防軍最高司令官である大統領を訪問してきた。大統領は、個人的には我々が到達した危機的地点について関心を持っていると表明した。大統領が面会を求めているにもかかわらず首相はそれを拒否したことで、我々は今や不確実な状態におかれている。
 大統領は憲法109条(1)項により、自らの判断において例外状況が存在すると判断して、首相を解任するという憲法的・法的な選択肢をもっている。これらの権限は、ときに留保権限(reserve powers)といわれ、これまでにフィジーにおいて行使され、そしてオーストラリアを含む他のコモン・ローの判例においてみられるものである。周知のように、ジョン・カー豪総督が、ホイットラム・ゴフ首相を解任したのがその例である。」
 このように、憲法解釈・慣習およびコモン・ローの判例にまで言及した軍人としては異例ともおもえる法理論に深く踏み込んだ発言をしている。次に述べる「必要性の原理」とともに、政権奪取後に予想される法的議論・紛争への布石とも考えられ、法律専門家の助言者の存在を窺わせるところである。
 
(3)「必要性の法理」(the doctrine of necessity)の援用
 大統領が憲法上の権限の行使を妨害され、目下の危機において「経済を活性化する必要、国事を正常化する必要、憲法を維持する必要、法と秩序を維持する必要」があるため、バイニマラマは、「フィジー国防軍総司令官として、私は、『必要性の法理』(the legal doctrine of necessity)のもとに、大統領権限を行使するつもりである」とする。
 そしてここで援用された「必要性の法理」について、判例の見解を引いて、次のように説明する。 
 「スコット判事は、また、その事件について次のように述べた。ある種の通常でない極端な状況において、憲法の定める通常の要件を離れることが許容される。この通常要件からの離脱は、これもまたこの事件で議論された、『必要性の原理』(the doctrine of necessity)の下に正当化される。これは、実に、憲法の作成者が予想しなかった通常でない例外的な状況であり、このような状況は、憲法を保持しフィジーという国民国家の統合を維持するために特別な手続きを要求するのである。」
 また、「必要性の原理」に則って行なわれたこの行動は、国家の平和や安定を回復するためのものであり、かつ憲法の効力も「必要性の原理」に関わる条項を除き何ら変更がないことを次のように強調している。
 「われわれは、この行動の理由(大義)は、大いなる躊躇の下に行われたものであるが、我々の愛する国家を平和、安定、正当な解決に導き、そして我々の憲法を保持することが必要であることを、繰り返し述べる。それゆえ、憲法は、『必要性の諸原理』条項を除きそのまま効力を維持する。従って、現下の状況に従って、我々のすべての憲法上の公職は司法権を含めてその正常な機能を果たすべきである。」
 
 以上の点から明らかになるのは、バイニマラマ国防軍司令官の主観的認識としては、今回の政変劇は、1997年憲法の精神を蹂躙してきたガラセ政権の腐敗を一掃する浄化作戦であって、クーデターではないということである。選挙によらない警察力程度の武力を背景とした政権交代という点はともかく、現行憲法を破棄するのではなく、むしろ現行憲法を保持しその精神をよりよく実現するための行動、という点で一般にいうクーデターの概念とは大きなズレがあることは事実である。
 南太平洋大学(USP)のスティーブン・ラツバ博士(Dr. Steven Ratuva)は、今回のクーデターについて、興味深い論文を発表している。そのなかで、クーデターを反動主義的(reactionary)な性格をもつものと改良主義的(reformist)な性格をもつものに二分する分類を紹介し、2000年のクーデターは前者に、そして今回のクーデターは後者に分類している。
 さらに、一般に「3つのS」(triple S)、すなわち、秘密性(secrecy)・奇襲性(surprise)・迅速性(speed)の三つがクーデターの要件とされるが、今回のクーデターはこのいずれをも欠く「異例のクーデター」(unusual coup)であるという。
 その一方では、厳密な意味ではクーデターではないという見解をとる論者がいることも紹介しており、今回のクーデターの法的性格を考えるにあたり、示唆的な内容を多々含んでいる。
 
 
4.クーデターの評価と今後の展望
 
(1)現時点でのクーデターの評価
 今回の政権交代は、民主主義の手続きに則ったものでないがゆえに、その一事をもって一刀両断に斬り捨て、ひたすら非難に終始する立場もあり得よう。オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、EUなどの西欧民主主義国のとっている目下の立場はこれに尽きる。しかし、われわれはこのような立場に与すべきではないだろう。
 フィジーにおいては、1987年のクーデター以来、クーデターによる政治変動がその後の新憲法体制の成立につながり、結果的には国家の自立および自律を進行させる契機となってきた点を無視することはできないだろう。先住民ナショナリズムと近代化の両端を行き来しながら、あるいは行きつ戻りつしながら、中長期的にはきわめて緩やかではあるが、近代化・民主化と同時に人権保障および先住民の諸権利の法的保障を推進してきたと観察される。
 とくに今回のクーデターは、軍による近代化・民主化に向けた揺り戻しと位置づけられる可能性を秘めている。バイニマラマ暫定首相による暫定内閣が成立したことで、軍と政府の対立が解消され、さらにその内閣に2000年の文民クーデターで首相の座を逐われたインド系のチョードリー前首相が入閣したことによって、新たな国民統合政府の可能性が生まれたからである。
 2007年2月末現在、首都スバに入る道路に軍の検問所が設けられているが、一般の車両は検問なく通過し、登下校の生徒や住民も何事もないかのように通行している姿が見られる。国民生活は安定し、治安上の不安もとくに見受けられず、別段の緊張感も感じられない。いつもとかわりがない、フィジーの日常の風景である。
 また、暫定政権に対する国民の支持も広がっているようで、とりわけこれまでのクーデターとの最大の違いは、当初からインド系労働者層の支持を獲得している点である。ガラセ政権の先住民政策に対するインド系の不満や、噂される金銭絡みの政治腐敗に対する国民の不満の解消をバイニマラマ政権に期待する側面が強く、クーデターという手法そのものに対する批判を凌駕しているようにみえる。「バイニマラマは正しいことをしている(doing right things)」、というインド系のタクシー運転手の言葉が印象に残る。
(2)クーデターの法的評価
 政権成立の民主的正当性の問題が残るが、今後この暫定政権が数ヶ月安定的に推移し、現行憲法の不備を改正する形で新憲法の制定に成功すれば、その時点で今回のクーデターは完遂されたことになり、新体制の成立が法的にも承認されることになる。
 ところで、今回のクーデターは、ガラセ政権を放逐することが事実上の目的であったかのような結果となったが、その追放の理由の一つが、法の支配・憲法および憲法の精神の擁護という、構図になった。ここに、フィジーにおけるこれまでのクーデターとの決定的な相違がみられる。すなわち、これまでのクーデターが、憲法の破棄を目的とし、新たな憲法の制定を掲げたのに対し、今回のクーデターは、憲法ないし憲法の精神の擁護のための試みであると、その大義を掲げた点である。
 憲法破棄を掲げたクーデターであれば、その成功は新憲法体制の確立をもってはかられる。フィジーにおいては1987年の2度にわたるクーデターの結果、それまでの1970年憲法が破棄され、1990年憲法が制定されその体制が確立した例がそれにあたる。一方、1997年憲法の破棄を掲げ実行されたものの、結局のところ新憲法の成立に至らなかった2000年のクーデターは、その失敗例と法的に評価することができる。
 では、今回のクーデターはどう評価すべきなのか。かつてチョードリーがガラセを訴えたように、立場が変わったガラセ側がバイニマラマ側に対し訴訟を提起し、裁判所の場でこの事件の法的正当性が争われる可能性が高いため、クーデターの法的評価について現段階での私見を簡単に述べておきたい。
 既に紹介したように、バイニマラマ国軍司令官が、12月5日および6日の声明のなかで、首相解任に至る自らの行動の合憲性・合法性とその行動の目的が憲法擁護にあるとして、詳細な法理論を展開している点に注目したい。ガラセ政権の腐敗を理由に政権の座から放逐するのなら、そしてバイニマラマ国軍司令官の認識がいわゆるクーデターの実行であるなら、これほど詳細な法理論を声明文の中で述べる必要はないはずである。自らの行為の政治的正当性を主張すれば十分であり、むしろそれだけに絞った方が国民にアピールするというものである。
 バイニマラマ国軍司令官自身、今回の一連の行動を「浄化作戦」(clean up campaign)と称していることからしても、一般国民にとっては、どちらかといえば、どうでもいい法律論を抜きに、端的に腐敗政権の追放のためのクーデターであると訴えた方が説得力があるというものではないか。国民は、国軍司令官というよりも法律家の話を聞いているような気分だろう。
 にもかかわらず、このような法理を展開したのは、バイニマラマ国軍司令官の行為はクーデターに該当しないという解釈の可能性を開き、いずれ予想される「裁判闘争」に備えたというのが理由の一つではないだろうか。だとするなら、今後、ガラセ側との裁判の闘争が演じられたとき、その結論は、かつてのチョードリー対ガラセ事件と同じにはならない可能性が出てくる。かつてラウトカ高裁で2000年の文民クーデター事件の際に暴徒により家屋を破壊されたインド系住民の提起した訴訟の中で、2000年のクーデターは違憲であり、憲法の破棄も無効であるとの判断を下したゲイツ判事(Anthony Gates)が、最高裁判所主席判事代理に就任した点が注目されよう。
 
(3)今後の展望
 近年、どちらかといえばインド系の主張を認めるような解釈方法をとり、政治のアクターとなったかのような様相すら呈している外国人裁判官で構成される裁判所の判断は、バイニマラマ側の主張を認める可能性がある。なぜなら、今回のクーデターは、2000年のそれとは逆に、インド系国民の支持を得ているからである。さらに、フィジー先住民系の国民においてもまた、先住民系フィジー人軍司令官の行った行為と、腐敗政権の放逐という行動の大義に共感する者が多数を占めていくのではないかと思われる。
 このような状況を考慮すると、バイニマラマ暫定政権は、2010年までに実施される予定の下院議員総選挙においても信任され、フィジー政治の近代化の進展に貢献したと後に評価されることも考えられないではない。今後、選挙条項を含む一部憲法条項の改正が行われた後に総選挙が実施され、バイニマラマが立候補し当選を果たすか、またはバイニマラマが別の人物に政権を委譲してその人物が当選したとき、バイニマラマ暫定政権にも事後的に民主的正当性が付与され、フィジーの民主政復帰が実現することになるものとみられる。
 しかしながら、今回のクーデターの発生のように、一見安定しているように見えて、突然何が起こるかわからないのがここ20年のフィジー政治であり、今回の事件の帰趨を含めてこれからの事態の推移に十分な観察が必要であろう。また、現在のところバイニマラマ暫定政権に対しその退陣と総選挙の早期実施を要求するなど、強硬な姿勢をとり続けている「西欧民主主義諸国」からの外圧に対して、バイニマラマ暫定政権がどう対応していくかについても、十分な注意を払う必要があろう。
 
 
(参考文献)
 □STATEMENT OF FIJI COMMANDER BAINIMARAMA(12/5/06),         http://pidp.eastwestcenter.org/pireport/2006/December/12-12-st1.htm
 □Steven Ratuva, Fiji's Unique Coup Still Unfolding,
   PIR, 2007.1.9,http://pidp.eastwestcenter.org/pireport/2007/January/01-09-com1.htm
 □Ricardo Morris and Samantha Magick, The Quiet Coup, Pacific magazine, Jan/Feb 2007
 □Turanga, Issue 5 January 2007.
 □Turanga, Issue 6 February 2007.
 □東 裕「2006年フィジー総選挙と複数政党内閣の成立−『複数政党内閣』制の由来と運用上の問題について−」、『パシフィックウェイ』通巻128号、(社)太平洋諸島地域研究所、2006年。
 
 □ 同「クーデタの法理について−フィジーのクーデタ(1987年)を中心に−」、『苫小牧駒澤大学紀要』第4号、2000年。
 □ 同「フィジークーデタ(2000年)の憲法政治学的考察」、『苫小牧駒澤大学紀要』第5号、2001年。
 □ 同「クーデタと司法権−フィジー控訴裁判所判決(01・03・2001)の批判的検討」、 
『苫小牧駒澤大学紀要』第6号、2006年。
 

 
フィジー諸島共和国略史
 
1874年 英領植民地となる。
1970年 英国より独立、1970年憲法発効。(国名:フィジー)
1987年 ランブカ中佐によるクーデター(5月、9月)。
      英連邦を離脱し、共和制に移行。(国名を「フィジー共和国」に変
      更)
1990年 1990年憲法制定。
1995年 「憲法再検討委員会」(FCRC)発足。
1996年 「憲法再検討委員会報告」(リーブスレポート)提出。
1997年 1997年憲法公布(7月)。
英連邦再加盟(9月)。
1998年 1997年憲法発効。(国名を「フィジー諸島共和国」に変更)      
1999年 新憲法下で初の総選挙実施、インド系の労働党が過半数の議席
      を獲得。
      チョードリー労働党党首、インド系初の首相に。憲法規定に従い
      「複数政党内閣」(multi-party Cabinet)を組織。
2000年 フィジー系文民によるクーデター(国会占拠監禁事件)
      (5月)。1997年憲法を破棄。暫定軍事政権を経て、暫定文民
      政府発足(ガラセ首相)(7月)。
2001年 「憲法破棄は違憲」との控訴裁判決をうけ1997年憲法が復活。
      ガラセ暫定政権は選挙管理内閣に模様替え。(3月)
     総選挙実施(8月〜9月)、ガラセ党首のSDL、過半数の議席獲得。
      ガラセ内閣発足。組閣が憲法の定める「複数政党内閣」条項に違
      反しているとして、チョードリー前首相提訴。
2002年 控訴裁、ガラセの組閣に対し違憲と判断。
2003年 最高裁、ガラセの控訴を棄却、違憲判決確定。
2006年 総選挙の結果、ガラセ首相再任。「複数政党内閣」を組織。(5月)
バイニマラマ国軍司令官によるクーデター発生(12月5日)
2007年 行政権をイロイロ大統領に返還(1月4日)。バイニマラマ国軍司令
      官、暫定政権首相に就任(5日)。14閣僚からなる暫定内閣を組織
      し、チョードリー前首相が財務大臣で入閣(8日、9日)。
2010年までに下院議員総選挙の実施を表明(2月)。
        
   

 

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